1871年、明治4年、白瀬知教(ちきょう:白瀬矗の幼名です)は10歳になります。
この頃、毎年の夏に山麓の青年たちが白装束に身を包んで、列を組んで鳥海山に登るという慣例があったそうです。
知教は7・8歳の頃からこの鳥海登山に同行したくてしょうがなかったようです。
しかし、鳥海山は標高2,236mと道中は長く、険阻を極める登山道です。
子供の足ではとても無理だと断わられていました。

彼は夏が来るたびに知教は熱心に頼んだようです。両親に頼み、地元の青年たちにも、お百度を踏むように頼んだのでした。
10歳の夏、その願いは叶えられました。
しかし条件があります。
それは「決して人に頼らないこと。どんなに苦しくても自分の足で登ること!」です。
初登山の日、彼はとても神妙だったようです。
世話人や先輩のいう事をよく聞き、無理をせず、慎重に大人たちの後にしたがって登っていきます。
途中、鳥の海御浜神社では神前に神妙に手を合わせます。
頂上に近づくにつれて雲は眼下にたなびいているのを見ます。
彼はこの世の風景ではないと思ったようでした。
また、雲の切れ間から昇るご来迎の荘厳さ息もつけないほど感動するのです。

そして、鳥海山の頂上に立つと眺望は一気にひらけます。
知教は普段は、水平線に浮いている飛島しか知りません。
そこが世の果てと思っていましたが、彼は息を飲みます。
そして「あっ、飛島の向こうにも海がある!」と。
彼はその翌年、節斎からマゼランやコロンブスの話を聞いて、「北極探検家」になる事を誓います。
自分の知らない世界をリアルに感じていた事が影響していることは確かだと思いませんか?

今日2020年10月31日、家族で鳥海山5合目鉾立に行きました。
車で行きました。
149年前、10歳の白瀬少年は「足で登った」のです。
今日は、彼が感動して新世界の発見を気づかせてくれた「飛島」は見えませんでした。
白瀬が登山した日、もしも、飛島が見えなかったら、彼は探険家になっていなかったかもしれないのかなぁ・・・と考えてしまいました。

そうです。
149年前彼が登った日は、雲海を越えて山頂に着いて、飛島が姿を現したのです。
鳥海山の存在も、その日の天気も、登山できたという事実も、「奇跡的に結実した日」だったのです。
途中は苦しかったことでしょう。
その苦しみを乗り越えたご褒美は、彼の人生を変えるくらいだったのですね。
ここからは仮定ですが、
鳥海山が無かったら・・・・彼は飛島の向こうの世界に気づくこともなく、新世界の発見に気づかずにいたかもしれません。
果たしてそんな彼が北極探検家を志したでしょうか?
そして、5つの戒めを生涯守り通す人生を選んだでしょうか?
紆余曲折を経て南極探検隊をして、「やまとゆきはら」を宣告したでしょうか?
そう考えると、毎日仰ぎ見ている鳥海山が神々しく思えます。
鳥海山が生まれた日は知りませんが、
その日から、白瀬矗という人間が、日本人で最初に南極探検をすることは、
決まっていたことかもしれません。
そして、白瀬南極探検隊の功績が無かったら、我が国の南極観測も相当出遅れた事でしょう。
存在しなかったかもしれません。
タロとジロの悲しい物語もなかったかもしれません。
すべては、何から始まったんだろう・・・・?

「鳥海山」からはじまった・・・・!?
今私たちが、NPO白瀬南極探検100周年記念会で
隊員の親族調査プロジェクトをしていること、
その隊員の人物像を見つけるために
「南極記のテキスト化」と刺し違える覚悟でいることも、
鳥海山が生まれた日から決定づけられていたのではないか・・・・!
偶然は無いと言いますよね。すべては必然・・・・!
私の存在が、10年後、100年後に誰を動かすのだろう?
何につながるのだろう?
ワクワクするけど、事実や行動は全て「心」から生じることだと分かりました。
鳥海山よ、白瀬矗よ、ありがとう。拝
コメント