アーカイブ保存版専門調査委員会活動

白瀬矗の生涯と南極探検

文責:佐藤 忠悦(NPO法人白瀬南極探検100周年記念会 監事)

誕生~千島越冬体験

 白瀬矗は1861(文久元)年、秋田県金浦町(現にかほ市)の浄土真宗のお寺、「浄蓮寺」の第13世住職知道、マキエの長男として生まれ、幼名を知教といいました。

 この知教少年、狐を生け捕ろうとしてシッポをもぎとったり、お寺の本堂の屋根にひっかかった凧をとろうとして転落し気絶したり、夏、沖に停泊している北前船の船底を潜りぬけようとして失敗し九死に一生を得(う)るというような手に負えない腕白坊主で、いつも母親をハラハラさせている子どもでした。

 知教は8才のとき、蘭学者である佐々木節斎という先生の寺子屋に入ります。

 11歳の時、知教は佐々木節斎から「知教、お前はここではガキ大将で威張っているが、世界を見渡せば勇気のある立派な人たちが沢山いる」そういってコロンブスマゼラン、それに北極海探検で有名なジョン・フランクリンの話を聞かせます。白瀬はそれを聞いて「西洋人にできて日本人にできないわけがない」と佐々木節斎の話が白瀬を極地探検に駆り立てるきっかけとなったのです。この時、節斎は北極探検の心構えとして五つの戒めを言い渡しました。

   一、酒をのむな

   二、煙草を吸うな

   三、お湯を飲むな

   四、お茶を飲むな

   五、寒中でも火にあたるな

 白瀬はこの戒めを生涯守り通したといいますから、目的に向って努力する意志の強さを表しています。

 知教は長男ですから僧侶になってお寺を継がなければなりません。

 しかし、探検家になるには軍隊に入るのが一番という、佐々木節斎の教えに従い、お寺を弟の知行に譲り、明治12年(1879)18歳の時、東京日比谷にあった陸軍教導団騎兵科に入団し軍人になります。軍隊に入って自から知教を「矗」と改名します。矗とは直立する様という意味ですが、この改名はお寺の跡継ぎを放棄することを意味し、北極探検に対する思いを新たに、不退転の決意を示したものと思います。

 つまり、直は直角に通じ、直角は90度、90度は極点、この90度は矗の極点に対する深い思い入れを含んだものと言ってよいでしょう。

児玉源太郎との出会い

白瀬の陸軍生活は13年間(明治12年9月~25年10月)に及びますが、大きな示唆を受けたのが児玉源太郎(当時陸軍少将、後に大将)との遭遇でした。

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児玉 源太郎(こだま げんたろう)

 明治23年の秋、仙台の野外演習で偶然に出会ったのです。

 児玉に自分は将来北極探検を志していることを話すと、児玉は北極に行くのであれば、その前に千島やカラフトの極寒の地を体験し、体を鍛え、経験を積んで、探検家として世間から認められることが先決だと諭されます。

 そして陰ながら白瀬の探検に支援することを約束したのでした。

投書事件

 児玉将軍に会った翌年、白瀬は大きな事件を起こしています。当時陸軍では「陸軍武官結婚条例」というものがあって、将校(少尉以上)や下士官、准士官が結婚するには一定の保証金を陸軍省に納めなければなりませんでした。

 それが大金であったため結婚できない将校や下士官が沢山おりました。当時こんな歌がありました。

 「貧乏少尉に やりくり中尉、どうやら暮らせるやっとこ大尉」

 そこで白瀬はこの条例の廃止を一兵卒という匿名で兵事新聞に投書します。それが大きな問題となり、矗の所属する第二師団に禁足令が出されるまでになり、とうとう白瀬は「あの投書は自分であります」と名乗り出ます。

 司令部では剛直で有能な特務曹長であっただけに処分に苦慮しますが、結果は「予備役編入を命ず」でありました。

 矗の性格は、理不尽のものについては、徹底的に抗議する一本義なところがありました。

千島探険

 自由の身になった白瀬は児玉将軍に進められた千島探検を企てますが、当時、海軍の退役軍人で組織する「報效義会」を率いる海軍大尉郡司成(しげ)忠(ただ)が大規模な千島探検を計画していることを聞き一隊員として加わります。

 明治26年8月31日、千島列島の最北端占守(しゅむしゅ)島に上陸し、周辺の島の調査や密猟などの監視にあたりますが、島での生活は厳しい寒さとの戦いでした。冬になると寒暖計の水銀が寒さのため凝結して動かなくなることもしばしばあったといいます。それに新鮮な野菜の欠乏は壊血病を招き隊員を苦しめます。

 翌27年7月、郡司大尉は父親が迎えにきて、来年の春には迎えに来ることを約束し、内地へ帰ります。

 後を託されたのが白瀬以下6名の隊員でした。

占守島の生活

 白瀬たちの占守島の生活は食糧の確保と寒さとの闘いでした。翌年の(明治28年)3月には食料も乏しくなり、体力は衰弱し、6人のうち次から次へ壊血病で亡くなり、その遺体の傍で生活するという悲惨な日々が続ききます。5月には白瀬と2人の隊員だけとなりました。

 皮肉にも座礁した密猟船から食料を分けてもらい助けられるのですが、密漁船の船長は白瀬たちの穴居生活を見て、これでも人間として生きていけるのかと思うほど悲惨なものでした。

 白瀬が家族の居る仙台に帰ったのは日清戦争の終わった明治28年の秋(10月)。実家の浄蓮寺では死亡したものと思い、妻ヤスに子どもは寺の方で引き取るから貴女は再婚しなさいと、勧めたそうですが、「私は子どもをしっかり育て夫を待ちます」と言い切ったそうです。明治の女性の強さを感じさせます。白瀬の探検を支えたのは良妻賢母のヤスの存在を欠かすことはできません。陰の功労者と言ってもよいでしょう。

北極から南極へ

 白瀬は前に述べたように、北極探検を目指しておりました。ところが明治42年9月アメリカのピアリーが北極点踏破に成功したというニュースが飛び込んできます。

 これまで北極探検を志して体を鍛え、佐々木節斎の五訓を守り、郡司大尉の千島探検にも加わり極寒の経験を積み、いざこれからだという矢先であっただけに白瀬にとって大きなショックでした。しばらくは茫然自失の日々が続いたといいます。

 気を取り直した白瀬は、「北極がダメなら南極がある」文字通り目標を180度転換し南極を目指すことにします。

 飽くなき極地への挑戦です。白瀬は48歳になっていました。当時の平均寿命が50歳そこそこと考えると、旺盛な精神力に驚かされます。

 探検家の要素である強靭な体力と精神力、それに負けず嫌いの性格は少なからず、両親から受け継いだにしろ、それを育てた環境を無視することはできません。

 白瀬の生まれ育った当時の金浦は、東北の寂しい寒村そのものでした。特に冬の日本海は怒涛逆巻き、波の花が飛び散る厳しい光景が見られます。

 白瀬は自叙伝の中で「前には日本海の怒涛を聞き、後ろに狐や狼の声を聞きながら育てられた私は、いつの間にか物に動ぜぬ気性と艱難に打ち勝つ意志の強さを授けられた」と言っております。

 また「自分は、人が鍬や鎌で雑草を切り揃えた跡を、何の苦労もなく坦々として行くのは大嫌いだ。蛇が出ようが、熊が出ようが、前人未到(ぜんじんみとう)の堺(さかい)を跋渉(ばっしょう)したい」

 白瀬の探検家としての素地はこのようなところにあったといってもよいでしょう。また寺子屋の先生佐々木節斎の話に刺激されたことも一因であったことは言うまでもありません。

明治という時代

 そして何といっても、明治という時代です。明治維新はすべてを一新し、封建時代の鬱積したエネルギーが国運(日清、日露の戦勝)の上昇とともに海外へ飛び出そうとしていました。

 明治は日本の青春時代といわれるように、富国強兵を旗印に欧米に追い付け、追い越せと、政治家は国家意識に燃え、軍人は自国を守るために命がけでした。

 そして何よりも、青年たちは将来に向かって大望を抱いていた時代であります。明治維新を契機に多くの若者が海外へ留学生として、あるいは移民として羽ばたいていきました。

 司馬遼太郎の言を借りれば、国民一人一人の精神が外部からの強制ではなく、型にはまった教育の結果でもなく、それぞれが、感じるところに従って自由に躍動した時代であり、日清戦争から日露戦争までの10年間は、日本ほど奇跡を演じた民族は類がないと述べています。

 明治の3大壮挙といわれる郡司大尉の千島探検、福島中佐のシベリア単騎横断、そして白瀬中尉の南極探検は明治という時代を象徴する表れといってもよいでしょう。

 また、当時の世界を見渡せば欧米、特にイギリス、フランス、ロシア、スペイン、アメリカといった列強が武力によってアフリカ、アジア、南米などの弱小国を侵略し、植民地化する時代でありました。

 明治8年の樺太千島交換条約もロシアの武力に屈した不平等な条約であったことを思えば、他人事ではありませんでした。

南極探検の準備

補助金申請の目的

 白瀬は南極探検を目指しますが、資金があるわけがなく、国に十万円の補助金の申請をします。申請書の目的は領土拡張にありました。

○ 当時欧米の国際列強(特にイギリス、ロシア)がアフリカ、アジア、南米の弱小国を植民地化していくなかで、残された土地は南極しかなかったこと。

○ 武力によって侵略した領土は戦争に負ければ返さなければならないが、探検によって未踏の地を開拓したのであれば永久に自国の領土であること。

○ そして日本が欧米の列強より先に南極探検に成功することによって国威が発揚されることとしております。

 衆議院では白瀬の補助申請額10万円を可決としたものの、貴族院では3万円に減額しました。しかし政府は一銭の補助も出してくれませんでした。

後援会の設立

 政府が補助金の交付をしなかった理由はいろいろありますが、当時(明治35)イギリスと日本は日英軍事同盟を結んでおりました。このことはイギリスの派遣するスコット隊と競争になることが、外交上好ましくないと考えたからといわれております。日露戦争で莫大な戦費を費やした事も理由でしょう。しかし、それよりも政府の理解と認識がなかったことが一番の大きな理由であったと推察されます。

 そこで白瀬は有志と後援会を設立し、広く国民から義捐金を集めることにしたのです。後援会長になったのが早稲田大学の創設者大隈重信伯爵でした。大隅は白瀬と会って経歴を聞き、この意気、この体力があれば素志を果たすことができるだろうと判断します。

 そして西洋文明の今日あるのは、科学の発達と冒険により未開の富を開拓したことをあげ、この探検が国民の精神に大きく影響し、勇敢なる気性を鼓舞するだろうと述べています。

 大隈伯爵が後援会長になったとたんに南極探検の熱は盛り上がり全国に広がります。演説会があると長蛇の列ができるほどでした。

 当時、南極を目指していたのは白瀬(49)だけではありません。

 イギリスのロバート・ファルコン・スコット(43)。ノルウェーのロアルド・アムンセン(41)です。スコット大尉は2度目の南極挑戦でした。

資金と用船で苦労

 白瀬は資金不足もさることながら、最後の最後まで苦労したのが探険船です。このことが、出航を遅らせた大きな原因となったのです。

 最初海軍の軍艦「磐城(ばんじょう)」を予定していたのですが、海軍の方から修理に莫大な金がかかると言われ諦めざるをえませんでした。しかし、これは海軍で所有している軍艦を陸軍の白瀬中尉に貸与することはまかりならぬという話もあったといいます。

 当時陸軍と海軍は、確執が深く、山県有朋は長州を中心とした陸軍の軍閥を築きあげ、海軍には幕臣が多かったこともその原因であろうと思います。

 それを裏付けるように海軍大臣と同次官は白瀬の南極探検に賛同しておらず、冷ややかな態度でした。

 そしてやっと決まったのが郡司大尉の「報效義会」が所有する「第二報效丸(だいにほうこうまる)」という199トンの木造帆船の漁船です。

第二報效丸

 しかし、この第二報效丸は、当初予定していた「磐城」に比べの三分の一にも満たない小さな帆船の漁船でした。あまりにも小さな船に「こんな小さな船で南極まで行けるはずがない」。これまで全面的にバックアップしてきた朝日新聞が手を引きます。

 また血判書まで出して堅い決意を示していた隊員までも離脱するという事態にまで発生します。しかし白瀬はこの船でも大丈夫だという自信がありました。

 千島探検の際、北洋の荒海を乗り越えて密漁にやってくる船は、100トン足らずの漁船であったからです。

隊員の公募

 探検隊員は公募しますが、その条件のひとつに、

「身体強健にして堅忍不抜の精神を有し、
かつ多量の飲酒をせず、
歯力強健にして
梅干の核(たね)を噛み砕きえるもの」

と具体的に明示しています。

 隊員は全国から募集されましたが、300名ほどの応募があり、中には血書血判をもって申し込む者もおりました。

 これも明治という時代の若者気質を象徴するものではないでしょうか。

アイヌ隊員

 隊員の中に二人の樺太アイヌがおります。探検船が小さくなったため当初考えていた蒙古馬に代わって、急遽樺太犬に変更になったのです。そこで二人の樺太アイヌは自ら進んで隊員になることを申し出てきたのです。

 当時アイヌ民族は文字を持たないこともあって、読み書きができず軽蔑され、日本国籍でありながら、アイヌの人たちは偏見と差別により貧困に苦しめられておりました。

 魚場では強制労働を強いられ、水揚げからの搾取など、いわば和人の言いなりになっていたのです。単なる労働力に過ぎませんでした。

 アイヌ隊員のひとり山辺安之助(やまのべやすのすけ)はこのことを憂慮して、南極探検という実践を通して、アイヌ民族を見直してもらいたい。また同族の地位向上と奮起を促したい一心から探検に加わることを決心したのでした。この山辺も明治という時代が生んだ人物といってもよいでしょう。

 山辺安之助は金田一京助がアイヌ語研究のために樺太に渡ったとき、研究を手助けした一人で、後に金田一(きんだいち)博士と二人で『あいぬ物語』を著しています。

出航~一度目の挑戦

芝浦を出航

 白瀬は当初8月の出航を予定していましたが、探検船が決まらず、延期になっていました。第二報效丸を補強し、18馬力の補助エンジンを搭載、東郷平八郎海軍大将が「開南丸」と命名し、三宅雪領博士が南十字星を象った探検旗を翻して東京芝浦を出航したのは、明治43年11月29日でした。

 大隈伯爵は前途を祝し「百発の空砲は、一発の実弾に如かず」と白瀬隊を励ましています。

 この時、開南丸をボートで見送った早稲田の学生がいました。後の文部大臣松村謙三です。

 地球観測年の始まる2年前(昭和30年)南極観測の話が外国の関係者からあったとき、東大総長茅誠司が大蔵省に資金の援助を打診すると、けんもほろろに断られるのですが、時の文部大臣松村謙三は国民の精神高揚を図るには絶好の事業であると理解を示し、南極観測事業の参画に大きな原動力となったのです。

 松村の胸に、若き日(早稲田の学生時代)に開南丸を見送った熱い思いがよみがえったのかもしれません。早稲田出身の松村が大隅伯爵の意志を継承したと言ってもよいでしょう。

 開南丸は2月8日、ニュージーランド、ウエリントン港に入港し、食糧、石炭、飲料水を補給します。

 2月11日、ウエリントンを出港した開南丸が南極海に到達したときはもう冬の季節に入っていました。海は凍結し上陸はできなかったのです。上陸できたとしても極点への走行は不可能でした。 というのはソリ犬のほとんどを赤道直下の灼熱とサナダ虫の寄生虫によって失っていたからです。

 やむなくオーストラリアのシドニーに引き返し再起を図りますが、この頃スコット、アムンセンはすでに南極大陸に上陸し着々と極点踏破への準備を進めていました。

シドニーのキャンプ(明治44年5月~44年11月)

 開南丸はシドニーのパースリベイという小さな湾に停泊。当時のオーストラリアは白豪主義をとり、有色人種に対する排斥運動が高まっていました。そういうこともあって地元の「サン」という新聞は「こんなちっぽけな船で南極に行けるはずがない。南極探検に名を借りた軍事スパイである。上陸を拒否し退去を勧告するのが妥当」などと報ずる始末でした。

 このときの窮地を救ってくれたのがシドニー大学のエッジワース、ディービット博士と三宅幸彦です。ディービット博士は1909年1月、シャクルトン率いるイギリス隊のダグラスモーソンと共に南磁極に到達した地質学者で「彼ら日本人は東洋から千里の波濤を乗り越えてきた勇気ある探検隊である」と擁護してくれたのです。そればかりか彼の体験を基に白瀬にいろいろなアドバイスをしてくれました。

 そして三宅幸彦です。三宅は明治42年からオークランドの貿易会社に勤めていましたが、44年からシドニーの日本商社に移り住んでいました。そこへ開南丸がシドニーのパースリベィに停泊しているのを聞き、日本が懐かしく、邦人に会いたくて駆けつけたといっています。三宅との出会いは白瀬にとってもどんなにか心強かったことでしょう。

 何しろ白瀬隊には満足に英語を話せる者がおらなかったため、買い物するにもひと苦労だったと言います。

 三宅は語学力を生かして白瀬隊に対する誤解や偏見の解消のため奔走しました。その甲斐あってシドニーの人たちはキャンプ地を訪れ、お菓子や果物、花束などを持参し訪れるようになりました。三宅はこれをきっかけに、開南丸の運転士見習いとして隊員に加わります。

 白瀬隊のシドニーのキャンプ生活は困窮を極めていました。その苦労を事務長の島義武は次のように述べています。

 「内地に帰った船長からは久しく送金もなく、それでも文明国民たる品性を保たねばならぬ必要上、隊員は氷海突破以上の苦労を強いられた。手分けして連日在留邦人の商社を訪ね、20円、30円の義捐を仰ぎ20余人の糊口をしのぐ惨めさ。垢(あか)にそまった下着のため外人の面会を謝絶したり、筆舌につくせない困苦欠乏と戦いながら再挙を楽しみに200余日をシドニー郊外の一部に、天幕生活をした」

後援会の苦悩

 また後援会長大隈伯爵は「尚奮え」といったものの資金調達に苦労しておりました。再度国に対し補助金の申請をするのですが、政府はこれを拒否しています。それどころか、白人の前で日本の恥をさらすようなものだから早急に帰国せよと促したといいます。

 当時の外務大臣小村寿太郎はオーストラリアの齋藤総領事対し「白瀬らは日本政府とは何ら関わりない。したがって便宜を図る必要はない」という暗号文を打電しております。

 小村寿太郎は明治の優れた外務大臣ではありましたが、白瀬の南極探検には冷たかったことがうかがわれます。むしろ足を引っ張っていたといってもいいでしょう。

 イギリスと日本は同じ島国でありながら、イギリスは常に目を海の彼方に向けていたのに対し、日本は島の内側しか見ていなかった。その伝統の差が白瀬とスコットの違いとなって現れたといってもよいでしょうか。

 また、当時の政府は長州、薩摩の藩閥内閣で、首班の桂太郎は長州人、その長州藩閥の長老が山県有朋、山県と大隈はいわば政敵(犬猿の仲)の関係であったということも無視できません。

二度目の挑戦~帰路

再び南極へ

 白瀬隊は明治44年11月19日、再びシドニーから南極に向かいます。ソリ犬も山辺安之助の友人である樺太アイヌの橋村弥八が付き添って送り届けてくれました。この他にも樺太の富内や敷香のアイヌの人たちは物心両面において支援してくれたのです。

 南極に到達するには、「吼(ほ)える40度、怒れる50度」といわれる暴風圏を通らなければなりません。野村船長はじめ船員たちは勇猛果敢にこの暴風圏を乗り越えました。野村船長は時には神仏に祈り、時には大波に向って「さがれ、さがれ」と叫んでいたと後に白瀬は語っています。

南極へ上陸

 明治45年1月12日開南丸は鯨湾に到達し、16日にアムンセンの帰還を待つ「フラム号」に遭遇しております。

 アムンセンは前年の12月14日、人類初の極点到達に成功し、帰途に就いていました。

 17日に野村船長と三宅隊員が「フラム号」を表敬訪問。この日スコット隊(5人)が極点に到達しますが、極点にはノルウェーの国旗が翻っていました。スコット隊にとって失意と落胆の極点到達でした。そして帰路全員が遭難死するという最悪の旅となったのです。

 フラム号を訪問した野村船長と三宅幸彦隊員は堅牢な船体、整った設備を見てびっくりして帰ってきます。

 翌18日、「フラム号」のニールセン船長と士官が答礼に「開南丸」を訪れますが、あまりにも小さく貧弱なのに驚いています。一方は「フラム号」の優秀さに驚き、一方は「開南丸」の貧弱さに驚くという皮肉な双方の訪問でありました。

 そしてニールセン船長は「こんな小さな船で、よくここまでやってこられたものだ、自分たちは南極どころか途中までさえおぼつかなかったろう」と開南丸の勇気と優れた航海術に賞賛の言葉を送っています。

 また、三宅隊員は得意の画才を生かし、南極海の怒涛や氷海、ペンギンなどの動物、探検隊の活動を描いた、21点の水墨画を残しております。写真技術が発達していない当時としては、白瀬隊を知る上に貴重な資料として、今に伝えています。

突進隊

 白瀬は1月17日、18日とベースキャンプを設営。19日に突進隊5名を結成して20日に極点に向けて2台の犬ゾリで出発しますが、猛烈なブリザードと凹凸の激しい雪面(サシツルギ)に犬ゾリは難行苦行の連続でした。

 宿泊は小さなテント一張りしかなく、それには白瀬、武田、三井所の三人が入れば精いっぱいでアイヌ隊員の二人は積荷の橇を垣根にし、毛皮の防寒着を着たままの野宿でした。

 山辺安之助は著書『あいぬ物語』の中で「朝起きると自分たちの体の上に、沢山の雪が降り積もっていた」と記しています。

 26日、三井所衛生部長が食料の残り少ないことを白瀬に告げます。また、隊員の疲労もピークに達していました。

 ベースキャンプを出発してから8日目の明治45年1月28日、白瀬はここを最終地点と決め日章旗を立てて「大和雪原(やまとゆきはら)」と命名し日本領土であることを宣言します。

 この大和雪原はアメリカのバード少将の勧告もあり「日本領土大和雪原」として昭和8年世界地理学会から公認されたのですが、南極探検に理解も関心もなく、何の援助もしなかった当時の日本政府はそれを宣言しようとしませんでした。

 それどころかサンフランシスコ講和条約では南極の権益も、将来の請求権も放棄してしまったのです。

 「日本国は、日本国民の活動に由来するか、または他に由来するかを問わず、南極地域の何れの部分に対する権原、またはいずれの部分に関する利益についても、すべての請求権を放棄する」という条項が含まれているのを見て、日本側はその意味するところがよく分からなかったという話さえあります。

 白瀬矗は1月28日の日記にこう記しています。

「南緯80度05分、西経156度37分に至るや、一歩も進むあたわず。進まんか、死するのみ。否、死は兼ねて期せるところ。敢え(あ)て恐れざれども使命は死より重し。死して命(めい)を果たすを得ず。我は泣いて使命のために、この上の行進を中止する」

 そして全員死亡した場合のことを考え「死は努力の終局ではあるが、責任の終局ではない。日本南極探検隊が極点に至らずして南極大陸のどこかで死んだと伝えられたらならば、世界はいかに我々を見るであろう。恐らく国家的恥辱となるに相違ない」と述べ、国際的に日本の国自体が非難されることを心配しています。白瀬の、この探検を無にしないという強い責任感の表れであろうと思います。

帰路

 帰りは急ぎに急ぎました。往路の8日間をわずか3日間で基地に戻っています。南極の282kmを3日間で走り抜いた犬ゾリは今だかつてありません。それは食料が底を突き、残るはわずかのビスケットだけだったからです。そのビスケットさえもアイヌ隊員山辺(やまのべ)は犬たちに分け与えています。

 2月2日、鯨湾に白瀬たちを迎えにきた開南丸はボートを降ろしますが、南極特有のブリザードと、目まぐるしく変化する流氷に阻まれて接岸に難航します。隊員を収容するのが精いっぱいでした。

 そして犠牲になったのが20頭のカラフト犬です。

 「氷の上で悲しい声で鳴きながら船を追いかけて来る犬たちを見て泣かない者はなかった」と犬係りの花守は述べています。まさに後ろ髪を引かれる思いだったに違いありません。

 後年(こうねん)、装備の整った南極観測船「宗谷」や「ふじ」でさえ、氷海に閉じ込められてソ連の「オビ号」に曳航されたり、第1次越冬隊が悪天候のため15頭のカラフト犬を置き去りにしたことを思えば、わずか204トンの木造船「開南丸」が、猛烈なブリザードと流氷が迫り来る氷の海を脱出するのに如何に必死であったかが想像できると思います。

 2月4日、ようやく氷海から脱出し危機を逃れますが、日夜気の許せない氷海の中で隊員、船員とも疲労は極度に達していました。

 探検は初期の目的は達しというものの隊員の中には不満の声も少なからずあったといいます。白瀬にしても心残りであったに違いありません。すべて準備の立ち遅れと資金不足による退去でありました。

 明治45年(1912)6月20日、開南丸は1年7カ月、4万800kmの大航海を終えて一人の死傷者も出さずに無事芝浦に帰還します。

 アムンセンは北極海を縦横無尽に探検した経験豊かな探検家です。スコットは2度目の南極点挑戦でした。それに比べ白瀬隊は極地には全くの未経験で、アムンセン、スコット隊が国の援助を受け、国の威信をかけた隊であったのに対し、白瀬隊は国からの援助は全くなく国民の善意による、いわば民間の探検隊でありました。

 ノルウェーの極地研究家イワール、ハムレ氏は「極地に全く未経験であった白瀬中尉の探検はすべての探検史上の一新機軸をなす大冒険であった。極点に到達するには10度不足であることなど問題ではない。極地航路に慣れたフラム号ですら開南丸の冒険の半分も体験していないだろう」と述べ、航海技術の優秀さをイギリス王立地理学会誌(geographicaljournal)に載せ、白瀬隊の苦難と勇敢さをたたえています。

 また、後援会では探検の一部始終を「南極記」としてまとめていますが、後の日本の南極観測に大いに役立ったことは言うまでもありません。

 しかし、探検後の白瀬を待っていたのは、国民栄誉賞でも叙勲でもありませんでした。後援会は解散したため、当時の金額にして推定4万円。 今の金額にすると1億5000万円~2億円の負債を白瀬は背負うことになるのです。

 自宅は勿論のこと軍刀、軍服まで売り払い、愛娘の武子を伴い日本は勿論のこと台湾、朝鮮までも借金返済のための講演行脚に出かけなければなりませんでした。南極の極寒にも増さる厳しくつらい旅だったにちがいありません。

晩年~現代の南極観測

アムンセンとの会見

 昭和2年6月、報知新聞社の招きでアムンセンが来日し、白瀬と会見しますが、貧困のどん底の白瀬は、洗いざらしの浴衣(ゆかた)にその日やっと手に入れた夏羽織の姿だったといいます。正に「赤貧洗うが如し」でありました。

 アムンセンは「おお開南丸 開南丸」と手を差しのべましたが、白瀬の目にはうっすらと涙が浮かんでいました。

 当時の心境を

「恵まれぬ 我が日の本の探検家、パンを求めて処々転々」

と白瀬は詠んでいます。

 昭和10年、借金をほぼ返済しますが、その後も生活は楽ではありませんでした。

 昭和19年8月に、生まれ故郷金浦を終(つい)の棲家(すみか)として帰ってきますが、翌年の9月に家族会議と称して埼玉県片山村に行き、二度と金浦に戻ってくることはありませんでした。

 昭和21年9月4日、波乱万丈の生涯を愛知県挙母町、現在の豊田市で閉じます。

辞世の歌は

「我なくも 必ず捜せ南極の 地中の宝世にいだすまで」

 また、開南丸は探検後、元の報效義会に買い戻されますが、大正4年の秋、千島から台湾に鮭を輸送した帰りに、紀州沖で座礁し沈没しています。開南丸もわずか4年半の波乱に満ちた終焉でした。

國際地球観測年と日本の南極観測

 昭和30年(1955)、国際地球観測年に関わる南極会議がベルギーのブリュッセルで開かれました。

 日本は南極観測の参加を申し入れますが、すんなりと受け入れられた訳ではありません。 戦後10年、独立(サンフランシスコ講和条約1951)してからわずか4年しかたっていない日本に対して、関係国は「国際社会に復帰する資格はない」という発言が多数あったといいます。

 会議に出席した永田東大教授は白瀬隊の実績を述べ、また、日本の地球科学に対する過去の実績と熱意を述べて、何とか南極基地を設け南極観測に参加することができました。

 このことを考えると、白瀬の南極探検なくして、日本の南極観測はあり得なかったといっても過言ではありません。

以上

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