- 第二章 南極圈突進の航海
- 開南丸再征の機来る
- 諸般の準備終了
- 最後の握手 甲板上別辭の交換
- シドニー山河に告別
- 萬歳の聲海上に湧く
- パースル灣の埠頭附近に一時停船
- 中空に掲揚されし信號檣
- いざさらば! 舷頭の君が代
- 再擧南征の第一歩
- 滑稽なる鳥釣
- 信天翁、縞鴎の群翔
- 鳥釣の成功
- 急雨の來襲
- 驚くべき信天翁の強力
- 初雪降り初む
- 冬支度整ふ
- 船員の髭白く長く凍結
- 右舷十哩に氷山現はる
- 氷山を避けつゝ前進
- 群氷中の縫航
- 氷塊舷端に衝突して大音響を發す
- 雪鳥の飛翔
- ペングイーン鳥舷側に集る
- 種々の形の氷山
- 流氷を溶解して沐浴す
- 遠雷の如き音終夜絶えず
- 海上一面の氷群
- 人力の限りを盡して進航す
- 壯觀無比の鯨群棲息
- 船は辛ふじて氷圍を脱す
- 流氷に海豹を發見
- 帆影高く南航を急ぐ
- 高さ三百五十尺の大氷山
- 海豹に一彈を見舞ふ
- 零點下の海中に海豹との大格闘
- 船は鞠の如く狂風に翻弄さる 後部帆檣の絶頂登攀
- 飲料水の欠乏を杞憂す 握雪を犬に與ふ
- 輓犬の箱詰生活
- 輓犬の悲鳴と噛合
- 深夜犬群箱を蹴破つて甲板を駈け廻る
- 船は群氷の包圍中に陷る 鋸状の大氷山現出す
- 愈々南極圈内に入る
- 水平線上に一大白光體見ゆ
- 猛烈なる大吹雪
- 不安は刻一刻と募る
- 船は西經に入る 終日大氷山より離るゝ事能ず
- 望皚々たる浮氷の野 奇聲天地の靜寂を破る
- 止むなく逆航に決す
- 一難去つて又一難
- 幹部會議開かる
- 船長海圖を披き指す
- 航路は予に十分の自信あり
- 群氷に沿うて進航 巨濤狂亂、天地物凄き光景
- 甲板上の餅搗
- 勇ましき杵の音 餅臼は醤油の空樽
- 木屑が餅の中に飛込む
- 氷山氷盤に包まれ進退谷まる
- 船は漸く血路を開く
- 氷盤の裂目より大海豹
- 四十四年も餘すところ三日
- 出帆以來の快晴
- 太陽水平線下に沒せず
- 鯨群は潮柱を立つ 甲板に集まりし鳥眼瞰
- 迎年準備成る
- 元旦來れり
- 船中の拜賀式
- 屠蘇に代ゆる葡萄酒の祝盃
- ストーブ會議に花を咲かす
- 海鳥を見て陸地の接近を知る 雲烟糢糊裡に山岳を認む
- 萬歳の絶叫
- 一行喜色満面に溢る
- 雄大なる陸影眼界に映ず
- 愈々南極の玄関口に来れり
- 陸影漸く展開す
- 火山岩の露出
- 鮮やかに眼前に立ちホエウエルの白姿
- 萬歳を三唱
- 波間に出没せるペングイーン鳥の一隊
- ボッセッション群島視界に入る
- 流氷の群來益々多し 深藍色の海波
- 靜穏なるロッス海
- 船は海流に乘じ居れり
- 非常なる雲形美を現す
- 銀山の倒影は長く海波に映ず
- 氷上に大海豹の横臥
- 海豹狩に出掛く
- 狩猟隊の萬歳
- 水晶島上の點々たる黑影
- ペングイン鳥狩
- ペングイン鳥との活劇
- 二人に二羽の取組
- 生擒の目的を達せり
- 珍客を捕虜室に好遇す
- 滑稽なるペングイン鳥の態度
- 初獵の祝盞を酌む
- 隊長は海豹料理の指揮役
- 海豹脂肪の燃料
- ペングイン鳥の胃中より小石を得
- 甲板は頬を裂かんばかりの寒氣
- 二百尺の大氷堤眼界に入る
- ペングイン鳥の聲に征旅の夢を亂さる
- 氷堤は恰も萬里の長城を望む如し
- 幻日現はる
- ペン先のインキ氷結す
- 南極特有の幻嶽
- 一隊の鯱群悠々舷側に來襲
- アイヌの鯱群禮拝
- 忽然山岳の如き大氷山現る
- 南極の崇高なる自然美
- 人事の最善を盡して已まん 目的の氷堤まで三四十哩
- 六尺棒を振翳して大海豹狩
- 海豹討伐隊の好成績
- 三十餘頭の海豹を乘せし氷塊
- 半月形を爲せる氷堤
- 氷堤の處々に洞穴及び龜裂あり
- 硝子棒を吊下げし如き氷柱
- 氷堤試験の實弾一發
- 希くは十二珊砲あれ
- 上陸し得べく見ゆる一灣あり
- 灣上實地蹈査の爲め端艇派遣
- 大海豹と格鬪の三十分間
- 四人の影高き氷堤上に現はる
- 海豹蘇生して頭を擡ぐ
- 水底に沈みし海豹
- 龜裂散在して突進不可能 花守アイヌの龜裂陷落 名刺を氷底に埋め歸航
- 『四人氷河』と命名 『開南灣』と命名
- 氷界無人の境に不思議の船影
- 近づけば其れ諾威探檢船フラム號
- 鯨灣の野氷上に投錨
- 灣内は一望廣濶
- 極鯨幾群となく現はる
- 氷の流出季節?
- 目高の如き魚の樓息
- 探検隊一行の服装 流汗淋漓として全身を濕ほす
- 二百尺以上の氷の峭壁
- 極地ならでは見られぬ凄壯の光景
- 辛ふじて一大氷塊に這ひ上る
- 頭上を仰げば氷堤の一部將さに落下せんとす
- 氷塊に壓せらるゝか深溪に陷るかの二途
- 命綱を曳き乍ら通む
- 萬歳萬歳の連發
- 墨繪の如き開南丸とフラム號
- 無人の淸淨界を踏破せんとする鐡脚
- 西方に凸起する雪丘
- 適當なる登攀地點
- 荷物の犬橇運搬
- 氷提道路の開鑿工事
- 大龜裂に架する手橇橋
- 黑きこと漆の如き容貌
- 船長のフラム號訪問
- 稀有の好晴續き
- 荷物を置きて野氷流失せんとす
- 猛烈なる雪塵の飛揚
- 危機一髪の氷上貨物取除作業
- 寒風を冐してペングイン鳥の捕獲に向ふ
- フラム號士官の開南丸訪問 此の如き船にては来り得ず
- 六尺棒を杖として登攀す
- 蟻の如く氷堤を上下す
- 浮模様の如く見ゆる氷片の流出光景
- 荷物の一部見るみる流失
- 防寒服上の雪片銀の鎧の如し
- 足元の氷頻に流れ出す
- 九死に一生を得たる危険
- 山邊アイヌと輓犬三十頭を乗せし氷流出せんとす
- 最初から最後まで二分間
- 氷塊の缺墜する大音響
- 濶然たる鏡面巍峨たる白壁を宿す
- 魚鱗の如き卷層雲
- 突進隊と沿革との袂別
- 昨日の堅氷今日の龜裂
- アイヌ式の睡眠法
- 上陸隊と母船との聯絡は斷たる
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第二章 南極圈突進の航海
開南丸再征の機来る
第一次航海に際し、結氷の爲め上陸不可能の故を以て濠洲シドニー港に假泊中であつた日本南極探檢船開南丸は、爾來同港ヂブリー船渠に於て新武裝を整へつゝあつたが。
明治四十四年十一月十九日、再征の機來つて、隊長以下二十七名の隊船員と、一行二箇年分の糧食と、極地橇輓用の樺太犬三十頭とを搭載して、午後三時愈よ待ち焦れたる南征の帆翼を張ることゝなつた。
諸般の準備終了
隊長以下隊員は貨物の整理、船長以下船員は出帆の準備と、此日昧爽から各々其部署に就き、多忙を極めて居たが、やがて、午前十一時、チラホラと見送者の姿が、甲板に見ゆる頃には、既に諸般の準備は終つて居た。
最後の握手 甲板上別辭の交換
最後の握手の爲めに來船した面々は、同情家ボースウヰッキ氏と其家族、顏馴染の紳士淑女團、江木氏夫妻及び在留邦人有志、其他篤志の外人等であつたが、續いて午後二時、齊藤總領事代三保副領事夫妻、林書記生、日本人會幹事並に會員等約三十餘名、デビッド、シドニー大學教授、シドニー植物園長及び其令嬢等も來船し、日影麗らかなる甲板は、是等見送者を以て埋められ、別辭交換の聲に賑はつた。
此日は快晴に加ふるに日曜なので、一見識なき外人連も、快艇、輕舸、思ひゝに漕ぎ近づき、開南丸の周圍を繞つて、海上から萬歳を絶叫して居る。
間もなく警鈴は午後三時を告げた。
見送の群衆は船を去つて汽艇其他に移乘する。
シドニー山河に告別
此時野村船長は水先案内者と共に、後部船橋に立現はれ、汽笛三聲先づシドニーの山河に告別の響を傳へると、船首にはエンャゝと錨卷く水夫の掛聲勇ましく起る。
見送者中デビッド教授と、少數日本人とは、途中まで便乘と決したので、船は再度の汽笛を鳴らし、機關は緩やかなる運轉を開始した。
萬歳の聲海上に湧く
船の徐航を始めると共に、萬歳の聲は海上に湧き、船内からは之に應じて叫ぶ。
隊長は軍服姿凛々しく前部甲板上に佇立し、此盛大なる光景に滿足せるものゝ如く、絶えず手の小國旗を打振つて見送者の歡聲に應じて居る。
やがて船のシャーク島附近に至つた時、隊長は便乘のデビッド教授と三保副領事及び日本人會幹事連と乾杯の後、一場の別辭を陳べ、露營中の芳志に對する感謝状並に來國光の白鞘一振を記念の爲め、教授に贈呈すると、教授は丁寧なる別辭を述べ、總員と握手の後下船し、之に續いて他の便乘者も、汽艇に移乘した。
此間日本人會汽艇は、本船と同速度を以て駢進し、艇上と、船上とには軍歌隊歌の合唱絶間なく、其曲調の移る毎に、萬歳の聲は天地を撼がせて湧き立つ。
パースル灣の埠頭附近に一時停船
午後四時二十分、開南丸は、パースル灣の埠頭附近に一時停船した。
此灣は、隊長以下隊員が、過去七ヶ月間露營生活を營んだ記念の地である。
今や再征の門出に際し、其里人と風光とに告別すべく、特に命令して停船せしめたのである。
中空に掲揚されし信號檣
見亘せば、棧橋上に群がれる、紳士淑女の一團は、皆顏馴染の人ばかり、白き手巾、黑き帽子を打振りゝ萬歳の聲と共に見送つて居る。送らるゝ一同は、坐ろに、故郷を辭するの思ひに堪へぬ。海岸近くのドクター・リード氏の信號檣には、中空高く『安全なる航海と成功とを祈る』との萬國信號は掲揚せられ、同時にリード氏の汽艇は波を截つて來船し、熱誠なる別辭を述べられた。
停船二十分間の後、午後四時四十分再び前進を始めた。
時しも夕陽半ば沒し、暮風蕭々として別離の情を切ならしめた。
船がワツトソン灣沖合に進航すると、海岸に立並べる、見送人は、頻りに萬歳を連呼しつつあつたが、やがて燈臺船を右に見、港口に近づけば、外洋の波、漸く高い、隊長は見送りの汽艇に向ひ
いざさらば! 舷頭の君が代
『いざさらば、此處にて永別を告げん』とて、先づ一場の挨拶を述べ船上、艇上の一同は互に舷頭に立並んで『君が代』を合唱し、隊長の發聲にて、祖國の萬歳を三呼し、こゝに、征く者と、送る者との永別は告げられた。
水先案内者の下船と共に、開南丸は汽走を早め、南岬を廻つて、外洋に出たが、折しも北東の順風徐ろに來つたので、新調の三角帆は、白く暮れゆく洋上に展開され、東南の針路に向つて心地よき帆走を始めた。
再擧南征の第一歩
再擧南征の第一歩は、斯くして踏出されたのである。
シドニー出帆後の開南丸は風波無事二週夜を送つて、十二月三日を水や空なる洋上に迎へた。
滑稽なる鳥釣
出帆以來無聊に苦んで居た隊員連は、此日午餐後、船尾に於て、滑稽なる鳥釣を試み、少しく連日の積鬱を散ずることが出來た。
信天翁、縞鴎の群翔
朝來の雲翳は正午に至つて散じ、麗らかなる好晴となつた。すると船尾の方には珍らしくも信天翁や縞鴎等が無數に群翔しつゝ、船を追うて居る。
之は陸地の近い證徴で、船は今新西蘭の西南端に當る、オークランド群島附近を航走して居るからである。
最初、此群鳥を認めた安田船工は、一計を案出し魚釣針に薫豚の白味を附け、細長い紐をば二三十間も手繰つて、船尾から海上へと流して見た處が計略虚しからず、信天翁の一群は、互に嘴を揃へて、珍味は拙者が賞翫と先きを争うて、釣針の薫豚を啄む。
船からは得たり賢しと、徐々に紐を曳き初めるのであるが、少し焦らせ氣味で一氣には曳ぬ。
信天翁の方では此珍味を逸して堪るものかとばかり嘴を開き羽翼を擴げたまゝで、波と摺れゝに餌を追うて翔け出す。
やがて先鋒の一鳥が、待ち兼て一ト嘴、啣へて中天に舞上らうとすると、ドッコイ其うは問屋で卸さないと、船からは聊か強く曳き初める途端、釣針は口内に引掛る。信天翁は閉口でなく、開口して痛いゝで已むを得ず、釣針に曳れ乍ら、翔けて來て、紐が船尾に達し、海面を離れても、釣らるゝ儘に、羽翼を擴げて居る。
此場合最も注意を要するのは、決して其羽翼を舷に觸させぬことで、實に危機一髪の呼吸である、安田船工は其うとは知らず、最早獲物は手中の物と、油斷して曳上げたから、遂に逃げ出され、折角の苦心も畫餅に歸した。
此安田式新案鳥釣法は、見るゝ數名の模做者によりて、實行され出した。
併し何れも危機一髪、九分九厘といふ處で、羽翼を舷邊に觸れさす爲めに取迯すので。
『アッ失敗つた、殘念!』の聲は、口々に順を追うて唱へられる。
鳥釣の成功
安田船工は、發明者たるの名譽を完ふせんが爲めとあつて、苦心惨憺、幾たびかの失敗の後、漸つと一羽を釣り上げると、他の失敗連は、益々焦慮し、何うしても一羽は捕つてやろうと苦心するが、何時も際どい瀬戸際で迯げられて終ふ。
一體信天翁は、一名を阿呆鳥と云はれる丈けに、餘り悧巧でない。
一度辛ふじて虎口を脱しても、一向に懲りず、再び引掛る。實に氣の毒なものである。
兎に角、此鳥釣りは、獲物の一擧一動が眼に見えるから、尋常魚釣以上の興味がある。
急雨の來襲
久方振の此釣遊も、結局安田船工の一羽だけで、此日は、俄かに來襲の急雨の爲めに、中止された。
翌四日も幸ひの快晴、鳥群も前日に倍して多數なので、午後から釣翁は船尾舵室の後方に列を作つた。
よく懸るが又たよく迯げるので、成績は昨日と同様、處がこゝに抜群の功名を收めたのは三井所衛生部長である。
遂に苦心の末釣上げたのは、頗る大なる一羽の信天翁であつた。
重量二貫目、兩翼の長さ七尺といふ稀有の逸物なので、一同は歡聲を揚げ、此日も此一羽を獲たのみで中止された。
驚くべき信天翁の強力
此大信天翁は、武田學術部長、村松、西川、兩隊員等の手で、漸つと水中に押付けて窒息の刑に處したが、此鳥却々の強力で、平素力自慢の面々も、屡次惡戰苦闘した位である。
滑稽奇抜なる鳥釣に興を喚んでから、早や一週夜を經て、十二月十一日の朝となつた。
初雪降り初む
一昨九日は、氣温結氷點に降り、昨十日には更に幾度かの下降を示し、初雪さへ、チラゝ降り出したので、今日の寒氣は豫想せられた。
そこで安田船工は、船首に流氷見張所の新築を了し。
冬支度整ふ
又た甲板通路の要所には、歩行の安全を保つ爲めに、棧を打付け、海圖室前には蓆を敷き、前部食堂には暖爐を焚き初めるなど、冬支度は既に整へられて居た。
果然今朝は非常なる嚴寒である。
船員の髭白く長く凍結
上甲板の飲料水槽の底板には、氷柱が下つて見える。
當直船員の髭も白く長く凍結して居る。
空を仰ぐと一天隈なく掻き曇り、時々霙交りの雪片が霏々として降つて來る。
『今日あたりは氷山が出現しさうだ』など船室で噂して居ると、午前十時三十分頃に、見張所に居た釜田水夫は、大聲を擧げて、『氷山が見えるゝ、』と叫んだ。
右舷十哩に氷山現はる
今次航海に於ける最初の氷山とて、總員は降り頻る雪の中を甲板に立出で、右舷十哩ばかりの沖を流るゝM字形の氷山に視線を注ぐ。
何分南極地方は夏期のことゝて、流氷も半解の姿である。
餘り大なる物でもなかつたが、其透明體が碧波に映じて漂ふ雄大なるさまは、相變らず、一行を活氣立たせる景色であつた。
次いで、午後二時、安田船工は、矢張右舷に三四個の流氷を認めたが、それからは時々刻々に續々と出現し、其光景は宛ら、白色艦隊が堂々舳艪相卸んで來襲するが如く實に莊嚴雄大である。
其光景の莊嚴雄大なる丈けに、危險の度も甚だしいので、前部上甲板には下級船員、後部上甲板には高級船員、互に交代で歩哨に立つ事となつた。
氷山を避けつゝ前進
當直船員は絶えず、甲板を左右して、海上を注視すると共に歩哨よりの報告を得ては、『卯舵ッ』『酉舵ッ』『垂直舵ッ』と、舵手に號令し、衝突を避けつゝ前進する。
程なく雪歇み、一群の流氷去つて、先づ安心と思つたは束の間、午後九時頃から、流氷の來襲以前よりも夥しく。
群氷中の縫航
遂に船は群氷中を縫航するに至つた。
來襲の流氷は何れも融殘りで、其形状は千状萬態である。
即ち門の如きもあり、小山の如きもあり、釣鐘に似て圓頂なるものや、靴底の如く中部の凹形なるものや、に千差萬別で、大氷山屹として聳立するかと見れ、氷盤平らかに浮出し、峰あり、洞あり、三角あり、四角あり、實に形容の辭なき奇觀である。
氷塊舷端に衝突して大音響を發す
此氷群中縫航の苦心は、到底筆紙に盡さない。殊に氷塊が、航路を遮ぎる時、船の舷端に衝突して、突如砲聲に似たる異響を發する光景は、全く凄愴の極度で、總員の神經は頓に興奮した。
此氣味惡き異響のうちに暮れ、明けて、翌十二日となつたが、相變らず雪空、流氷は多々益々海上に浮遊して居る。
船は此中をば、右に避け、左に轉じて、例の如く縫ひゆくのであるが、船首に氷塊の當る響は、斷續の度益々急となり、小なる氷塊に衝突しては、船首之れに打勝つて碎くが、大なる氷塊に逢つては、時に進航を停止されることもある。
斯くて結局氷群の爲めに、進航速力大に阻害せられ、縫航苦心の度は、時々刻々に加はるのみである。
此時、風波全く絶え。
緩漫なる潮水は、悠然たる上下動を無數の流氷に與へて居る。
雪鳥の飛翔
どす黑き雲中に純白の色あるは、南極産の雪鳥の飛翔けるので、皚々たる氷山上、此處、彼處、に在る無數の黑點は、云はずと知れた名物のペングイン鳥である。
ペングイーン鳥舷側に集る
此ペングイン鳥は、例の滑稽なる歩を運んで、何れも船を珍しげに打眺め、中には水中を潜つて舷側に來りガァガァと駄味聲を發しては、甲板へ飛上らうとするもあれば、又た或時は船を追うて近づかんとするも、船脚の迅きと潮流の工合とで失望し、中途から元との流氷へ泳ぎ歸るもあつて、先生却々愛嬌な眞似をやる。
此邊海上の氷塊は、氷餅とは違ひ、盤状ではあるが、周圍不規則であつて、上部には軟き雪を戴いて居る。
種々の形の氷山
偶には高さ數十尺、周圍數丁に亘る氷山其間に混じ、試みに、眼に入つたゞけの、形状を形容すると、洋風建物の如き、軍艦型を成せる、眼鏡橋型なる、さては食卓狀なる等、種々の奇形を現はして居る。
此大なる方の流氷は、氷堤の破片であつて、小なる方、即ち氷塊氷盤は多くは水面上三呎位であるが、皆冬期海岸に張詰られたる野氷の夏期に至り碎けて流出したるものである。
流氷を溶解して沐浴す
此夜十一時、花守アイヌは、流氷の小塊を拾集して湯を沸かせたので、總員は交るゝ久振の沐浴をなし、出帆以來の積れる垢を洗ひ落した。
進むに随ひ、流氷愈よ多く、船は惡戰苦闘の中に夜を明して翌十三日を迎へた。
遠雷の如き音終夜絶えず
遠雷の如く、砲聲の如き、氷と船首との衝突の音は、終夜少しの絶間もなく、ドシーンと突當つては、ザーゝと舷を軋る音が長く續く。
漸く其音が消えると又、新らしくドシーン。
寢臺に横はつて此音響を聞くと、宛も樽の外側から、棒で啄かれて居る心地がする。
船體は其都度猛烈なる反動と、氣味惡しき動搖とを起し、實に不快且不安の限りであつた。
海上一面の氷群
甲板に出て見ると、大小の氷群は、海上一面を掩ひ、前後左右、只一白、船は之れを突破して進んで居るのであるが其等の群氷は一夜のうちに著るしく其厚さを增加し、小なるものは船の進航を遮ぎり、中なるものは船を停止せしめ、大なるものは船をして烈しき震動と共に一二寸退却せしむる程で、其航行の困難名状すべくもない。
人力の限りを盡して進航す
仍て船は、成るべく厚き箇所を避けて、薄弱なる箇所を擇び、左縫、右折、苦心惨憺、人力の限りを盡して、進んでゆく。
一天を掩ふ白鉛色の雲は、低く海面を壓し、見亘す限り重疊起伏せる氷塊の形状は益々奇態を示し、高臺の如きあり、逆鋒を立てしが如きあり、又白毛氈を敷並べたるが如きもあつて、近く之を望めば壘々たる奇岩怪石の一大集合で、遠く之を望めば萬里に亘る茫漠たる一大氷野の如くである。
壯觀無比の鯨群棲息
此大氷野の處々に碧色を呈するは、氷なき蒼海の一部で、其處には幾條の汐柱遠近に立並び、此邊海上鯨群の棲息夥しいことが知られて、壯觀無比である。
船は辛ふじて氷圍を脱す
午後二時、一陣の雄風吹き來ると共に、船は辛ふじて氷圍を脱し、其全く氷軍を離れて、漫々たる碧波上に辷り出たのは午後七時であつた。
併し流氷は稀少になつたと云ふのみで、依然斷續して流れて來る。
其流氷上には、例のペングイン鳥、三々五々立並んで船を眺め、白き信天翁、黑き南極鷹の一群は、高く低く飛翔しつゝ、流氷を追うて居る。
流氷に海豹を發見
次第に進航する途上、漂來れる一箇の流氷上に、悠然身を横へて、春夢正さに濃かなる二頭の海豹あるを發見したので、船からは二人の射手互に射撃し、八發の彈丸を其長驅上に浴せ掛けた。
併し海豹は、頗る平氣なもので、一發毎に首を擧げては四圍を見廻し、何處の惡戯小僧が石片を投げて、吾輩等の安眠を害するかと云はぬばかり、又た首を俛れて終ふ、之には船上の射手も張合抜して、大切の彈藥を空費するも無益の業と、其儘射撃を中止した。
帆影高く南航を急ぐ
斯くて船は帆影高く南航を急いだが、妖魔の境にも似たる南極海の事とて、何時如何なる危險に遭遇するやも知れずと船員の警戒嚴重を極め、各員寸時の油斷もない。
午後八時頃に至り、突如一條の怪光は、赫灼として船の右舷を照し、之同時に一脈の奇寒は船を襲うて俄然總員を戰慄せしめた。
一同驚いて、甲板に出て見ると、今し稀有の大怪物は、右舷一哩の海上に出現し、火の如き夕陽を浴びて、燦たる光輝を發して居る。
高さ三百五十尺の大氷山
此怪物は、高さ三百五十尺、周圍約六哩の大氷山で、氣温爲めに華氏七度以上の急劇なる下降を示した。
此最大氷山は、底部では一箇のものであるが、海面上には二分劃を示し、碧瑠璃の如き海水は、其間に漂うて居る。其前方なるは、一大山岳の如く、之に續ける後方の一部は、兀然として圓塔の如く聳え、怪姿堂々として、急潮に漂流して居る。
其光景は莊嚴とも雄大とも殆ど形容の辭がない。
田泉技師は、直ちに活動寫眞に撮影し、學術部員は之が測量に從事し、隊員は爭うてスケッチ帖に鉛筆を走らせる等、甲板は非常なる騷ぎであつた。
海豹に一彈を見舞ふ
大氷山の出現から三日目の十六日午前九時四十分、突然甲板上に一發の銃聲が起つた。
『何事ッ?』と飛出して見ると、花守アイヌは、折しも右方の舷に寄り來る一頭の海豹に向つて、一彈お見舞申したのであつた。
零點下の海中に海豹との大格闘
其處へ折よく通り合せた最少年の柴田船員は一頭の海豹が、花守アイヌの一彈を見事に背に受け、海水を鮮血に染めて去りも敢えず、稍や苦悶の體なのを看て取つて、急ぎ着衣を脱ぎ捨て腹部に一條の命索を卷いて、『花守君、賴むぞ』と云ふや否、ざん乎とばかり海上へ一足飛に躍込んだ時、甲板には早や多くの見物客來集して、今しも、シャツ一枚のまゝ海中で、身長六尺もあらうといふ海豹と、大格闘中の柴田船員に、『しつかり遣れッゝ』と聲援を與へて居る。
此時海上、風波全く收まり、船も漂泊中であつた。
大海豹は地の利を得た上に手疵を負うて居るから、獅子奮迅の猛勢である。
柴田船員は此勁敵にも屈せず、巧みに怒れる牙を避け乍ら、接戰數合に亘つたが、何分海水は、攝氏零下五分の低温であるか、三分間の戰闘を續けた後、いざ捕縄を打たうとする一刹那、鐵も裂けなん猛烈なる寒氣に、流石の勇士も四肢の自由を失ひ、遂に遺憾乍ら手を退いた。
甲板では、『ソラ曳け!』と、命索を手繰つて柴田船員を甲板まで曳上げたが、激戰苦闘を經たにも拘はらず、身體には少しの負傷もない。
勇悍なる柴田船員は今しも敵か、水底深く潜り入らうとするのを見て、『殘念だなァ』と切齒し乍ら、同僚に伴はれ、暖氣を取るべく寢室へと下り去つた。
此柴田船員は、曾て郡司大尉の部下に属し、東察加、千島等の北洋の荒波で腕を鍛へた勇士である。過般も隊員連が、稀有の大動搖に辟易して、船室内で蟄居の最中、甲板上で武田部長が、『諸君見給へ、輕業以上の大輕業だッ』と叫んだ聲に、何事ならんと出て見ると、成る程之は輕業以上である。
船は鞠の如く狂風に翻弄さる 後部帆檣の絶頂登攀
宛も十一月廿九日の事であつた。
夜來の激浪は益々狂暴を逞ふし、船は宛ら鞠の如くに翻弄せられ、傾斜計三十五度以上を示すといふ、出帆以來の大動搖であつたが、此最中を柴田船員は、職務とは云ひ乍ら、大危險を冒して、後部帆檣の絶頂に攀ぢ登り、上檣の縛着作業に從事したのである。
すべてに於て、勇悍氣鋭の柴田船員は、今日の海豹との格闘に、武名を輝かしたので、隊長は特に果物一罐を褒賞として與へた。
飲料水の欠乏を杞憂す 握雪を犬に與ふ
節約に節約を重ねて來た飲料水も、程なく缺乏を告げるらしいので、一日三回づゝ多量の水を飲む輓犬共に、不自由あらせじとの懸念から、山邊、花守の兩犬奉行は、船の群氷圈に入つて以來、連日舷側近くに流れ寄る氷片の引揚方に勞し、又た雪後には、日陰に融殘つた積雪で、握飯ならぬ握雪を拵らへて、犬共に分配してやる等、頗る輓犬の健康保護に力めた。
此輓犬三十頭は、船内へ收容以來、山邊、花守の兩アイヌによりて、朝晝夕の三回、甲板へ曳出され百目許の鯡や鱒の干物と、水とを與へて居るが、毎時も箱から曳出す折は、却々の騷擾を演ずる。
輓犬の箱詰生活
狭い窮屈な箱詰生活を餘儀なくせしめられて居る犬共に取ると、此一日三回の自由が、何れ丈けの愉快であるか知れぬ、それ故愈々一方の戸が開かれたが最後、彼等は、我れ先きに飛出さうとするのみならず、他の箱の犬等も、一時も早く狹い天地から廣い世界へ出たいと焦り、吠える、唸る、戸を噛む、箱を蹴るで實に耳を聾せむばかりの喧囂を極める。
之は尤も無理がない、平生輓犬等の押込められて居る小舎といふは、都合三箇あるが其一甲板物置場の前右方に、高さ六尺長さ五尺奥行三尺五寸を二段に仕切り之に十頭を收容し、其二は海面室の前方機關部の右方、短艇前に三間許の板圍をなし、之に十四頭を收容し、其三は、其板圍の前面に高さ三尺五寸幅六尺奥行三尺の區劃をなし、之に四頭を收容してある。
處が之では尚ほ二頭の收容場が不足である。
仍て臨時に學術室の戸の外側を卜して、野天生活をなさしめて居る。
尤も此二頭に對しては、出帆早々、適當の小舎を新築してやる筈であつたが、何分連日の大傾斜の爲めに、大工仕事は意外に延期せられ、雨には濡れ次第、怒濤には浴び次第、畜類乍らも嘸かし不快であらうと察せられる。
輓犬の悲鳴と噛合
斯かる窮屈且つ慘澹たる生活であるから、箱の中の連中でも傾斜の甚しい時には、五寸乃至一尺づゝは、箱中で互に辷り轉げ、身體と身體との不快なる衝突をなす故に、其都度に悲鳴を揚げ、噛合を始める。
わけて野天生活の二頭は、不快と不安との爲め、日夜吼え叫ぶ聲は、少からず、隊長室並に學術室の人々の安眠を害した。
併し此厄介千萬なる輓犬の世話に任ずる兩アイヌの勞を思ひ、犬其ものゝ境遇を察したならば、不平も云はれす、又一方から考ふれば、此喧囂も要するに犬群の強壯を實證する譯であるから、迷惑乍らも心強く思はれた。
さて、元へ戻つて、此等の犬共が甲板へ曳出されると、彼等は狂喜して、右方左方を飛廻る、犬奉行が之等を一定の場所に繋ぎ集めるまでには、少なからぬ骨折で、殊に犬共は習慣として、己が小舎内では用便せぬから甲板へ出すと、必ず放尿し脱糞する。
それが更に場所を擇ばないから、犬奉行は彼等に食餌と水とを與へ、三四十分を經て、又た地獄の古巣内に追込んで後の甲板掃除は、随分辛いお役目と云はねばならぬ。
深夜犬群箱を蹴破つて甲板を駈け廻る
それも、一日三回だけで濟めばよいが、時々深夜犬群が、箱の戸を蹴破つて、甲板を駈け廻り其度に例の放尿脱糞で所嫌はず汚し廻るから、之を追込んで、後始末をする勞苦は決して尋常でない。
併し職務に忠實なる犬奉行は、犬群の嬉々として打騷ぐのを指し乍ら。
『之れからの航海は、益々寒地に向ふのであるから、犬も今の元氣なら、前回とは反對に一頭も殺さず無事極地へ上陸させる事が出來るであらう』と、髭武者面に得意の微笑を浮べて語る。
山邊、花守、の兩アイヌは、斯く日夜本職の犬の世話に勞した上に帆の掛替には必ず船員と共に働き、又た學術部の小使をも、兩人交代で兼務し、其他隊員にも立交つて何くれと立働くのである。
兩アイヌの常に勤勉、精勵、忠實なるには、總員の齊しく感謝措く能はざる所である。
こゝに憐を催したのは例の野天生活の二頭である、十二月一日の夜半、三十度以上の大傾斜最中、件の二頭は數回の怒濤を浴びたと見え、全身づぶ濡れになりて、學術室に忍入つた。
之は餘りの苦痛に、縄を切て飛込んで來たのであつた。
室内の一同は、一種の臭氣によりて犬の入來と知り。
點燈して見ると果して例の二頭、さも憐哀を乞ふのもゝ如く如何にも同情に堪へぬので、臭いが兎も角一夜の宿を許してやつた。
船は群氷の包圍中に陷る 鋸状の大氷山現出す
一たび群氷海を脱出したる開南丸は、十二月二十日午後二時、又もや群氷の包圍中に陷つた。
船員一同は一刻も早く之を横斷せんものと、死力を盡した効あつて、四十分間の苦闘の後漸く碧海上に脱出するを得たが、やがて、午後四時に至るや、突如右舷に鋸状の大氷山現出し、同時に大吹雪が來襲した。
愈々南極圈内に入る
船は急遽針路を轉じ、南東東東東北と、寸進尺退、數回も帆の掛替を行ふ等、非常なる苦心を以て航走したが、夜一夜の難航の後、翌二十一日に至つて、漸く正南の針路を航するに至り、午前八時東經百七十七度線から、愈よ南極圈内に進航した。
水平線上に一大白光體見ゆ
然るに、午前十一時、船も水も一時に凍結するかと思はるゝ一脈の奇寒と同時に針路の水平線上に大範圍に亘る一箇の白光體現出し、次第に眼界に近接して來る。
見ると、一大氷山である。
船では大に驚いて直ちに船首を北東に轉じたが、從來未だ曾て見ざる大氷山で、其高さ六十尺位延長何十哩に達して居るか解らぬ。
船では其末端に達せんものと、航走を急ぐのであるが、進めどもゝ更に末端を見ない。
猛烈なる大吹雪
加ふるに猛烈なる大吹雪は數次來襲し波浪亦た立騷いで、大に進航の困難を來した。
『此氷山を離れて南進したら、ロッス海であらう』と船長は云ふ。
不安は刻一刻と募る
併し何時に至れば全く離れ得るものか、前途全く測るべからずで、加ふるに前面に他の靴形の大氷山も現はれ不安は刻一刻と募るのみである。
其日は終日、其夜は終夜、魔の如き氷山を右舷に見乍ら東東北の針路を航走した。
が相變らず末端を見ずして、翌二十二日となつた。
船は西經に入る 終日大氷山より離るゝ事能ず
船は午前一時、百八十度線を越えて西經に入つたが、此日も終日大氷山から離れる事が能きず、翌二十三日午前二時漸く其東端と覺しき點へ出た。
船はそれより南東の航路を採つたが此長氷山は非常に長き氷堤が崩れ落ちて、果ても知れざる程の大氷山と爲つたものと思はれる。
望皚々たる浮氷の野 奇聲天地の靜寂を破る
流氷は進むに從ひ漸く低く、何れも大氷盤の群集せるものとなり、船は一望皚々たる浮氷の野に入た。
氷上に積れる雪中には、ペングイン鳥海豹の遊ぶも見え、奇聲は氷又氷を傳うて天地の靜寂を破つて居る。
止むなく逆航に決す
例の苦心多き縫航で、此氷野を前進すること二時間に亘つた時、又々群氷の來襲を受け、前進頗る危險となつたので、止むなく逆航に決し、急遽船首を東北の針路に向けた。
今日此頃の航海は、一たび群氷を截抜けると、直ぐ又た氷山の出現に逢ひ、辛ふじて氷山を避けて進まふとすると、又もや群氷に遮ぎられる。
一難去つて又一難
前門の猛虎、後門の兕狼、一難去つて又一難斯くて連日の難航の爲めに、船長始め船員の重なる連中は、心身過勞の結果、強度の神經衰弱に惱まんとするに至つた。
『先日來の海上の狀態から察すると、船は餘りヴヰクトリア州近くを航するよりも、寧ろ深く西經に航入し、エドワード七世陸に沿うて進む方、得策である。
幹部會議開かる
今航しつゝある此海上は、エドワード七世陸方面より、氷堤の下を洗ひ、ヴヰクトリア洲に沿うて流るゝ海流の爲めに流氷の多くは斯く此處に集滯するものであらう』との説、學術部より出でたので隊長は午后三時より船尾室に於て、幹部會議を開くことになつた。
其會議の模様は左の通りである。
船長海圖を披き指す
隊長『今日まで船長の苦心はお察申す、併し隊長としては、一刻も早く上陸がしたい。又デビット教授の注意をも參考に資したく、學術部よりの意見も參酌を願ひたい』。
すると船長は海圖を披き指し乍ら
船長『最初余の頭惱に畫いた考では、アドミラル山脈の一峰サビネ山を一度見て航路を定る目的であつたが、氷盤の一帶に遮ぎられて、果さず、又た隙もあらば南へ南へと突進まんと焦慮したが、途中群氷の爲めに幾たびか妨られ、右に避け左に除け、常に群氷を右方に見つゝ此處まで進航し來り、今日は經度百八十度線を往來して居る。昨今は機關の修繕中であるから、明日から汽走を以て流氷を避けつゝ、此針路を南進する筈である。此二三日の狀態を考ふるに十分南進は能きると信ずる』
武田學術部長『デビッド教授の説によると現在船のある地點の邊より西經に入り南寒帶流に随つて斜にエドワード七世州に到り、更に潮流を利用して鯨灣に往くが可なりとの事だ。余は斯せんことを希望する』
隊長『若し西經の群氷に沿うて南進しても、又前途に群氷ある時は、五十海里位北航し、尙ほそれにても血路なき時は、已むを得ぬから群氷や氷山の研究を遂げて歸ることになつても、之は詮方なき事である』
航路は予に十分の自信あり
船長『諸君方に其れ丈けの決心が有ればよろしい。然し予は船長としては西經に深く進めば、エドワード七世陸一帶よりの氷堤が、數百哩も突出し居りて、再び西歸するの愚を學ぶことのあるやも知れざるを怕るるのである。若し此の如き事とならば、航海者として予は天下の嘲笑を招ぐに至るであらう。昨年(前回)の航路は、予に十分の自信がある。若し不幸にして、不結果に終つても、其方が同じ心配をするにしても、國民に對し申譯が立つことになると思ふ』
群氷に沿うて進航 巨濤狂亂、天地物凄き光景
以上の如く、甲論、乙駁、討議を重ねた結果、左の如き判決となつた。
(判決)東經百八十度、西經百七十度の間から、群氷に沿うて進航すること。
斯くて、船は東航の汽走を急いだ。折しも南風頗る強く、密雲益々暗憺となり、飛雪粉々、巨濤狂亂、天地物凄き光景を呈した。
甲板上の餅搗
十二月二十六日午前一時から、中部甲板に於て餅搗が始まつた。
先づ炊事場には、勇ましく蒸汽を吹く大釜の上に、安田船工の手に成つた二箇の蒸枠が載せられてあつて、其外側には、「初春の壽立つや釜の上」とか、「松竹梅」とか、「目出鯛」とか、吉祥の文字が記されてある。
釜の前には渡邊厨夫や、安田船工等が、餅米の世話と餾ごしらへとの最中で、西川隊員、高川船員の兩人は、今しも臼から、移した餅を俎板に載せ、粉をふるやら、撫でるやらで、供餅拵らへに忙がはしい。
勇ましき杵の音 餅臼は醤油の空樽
甲板へ出て見ると、柴田船員、花守アイヌの兩名は、調子よく雙方交互に搗き下す。
側には後鉢卷の藤平火夫長が、頻りに杵の下をくぐつて、手返しをする。
處が杵音は却々勇ましいが、何うも搗き下した時の音が惡い。
何故かと思つて、熟く視ると、之は尤千萬だ。餅臼は醤油樽の明いたので鏡を取去り、底に圓木を埋め、其中に帆木綿を敷いてあるといふ、廃物利用の品物である。
それ故搗手が力を出す割に一向餅の粒々が消えない。
それから其儘では動搖つくので、二尺ばかりの高さある船艙の水除けへ頃合の臺と共に鉼留にしてある。
兎に角、不完全乍らも一生懸命に知恵袋を絞つたこと丈けは知られる。
そこで腕一ぱいの力で搗いて居るうちには何うか恁ふか餅になるが船は動搖する、寒氣は烈しいと來て居るから、却々の骨折である。
さて柴田、花守組の一臼が終むと、次が三井所、村松の新組が入代つて搗き初めると、其最中に雪片霏々として飛んで來る。
木屑が餅の中に飛込む
大降りにならぬうちにと、杵を早めやうとすると、杉丸太の杵は、幾度か臼の緣邊に當り、木屑は餅の中に飛込むといふ次第、漸つと一臼、生命から〲搗き終ると、次は渡邊、鎌田組で、杉崎船員も手傳ふ。
それが終むと其次が武田、多田組といふ風、斯くて都合五斗の餅を搗き終つたのは午前六時頃であつた。
餅搗き騷ぎて、賑はつて居た甲板は、一と頻りの降雪で白くなつた。
やがて、それが歇むと、前日午前頃から少なくなつて居た流氷の姿が、又たチラ〱と針路に現はれて來た。
そして午前九時には、又もや群氷の包圍を受けた。
氷山氷盤に包まれ進退谷まる
船は右曲、左折、帆、汽兩走で長時間の苦闘の後、辛ふじて脱出し得たが、午后五時に至つて、高さ三百尺、周圍二哩位の氷山、右舷二三哩ばかりに出現すると同時に、三四町乃至十町位の氷盤は、群を成して來襲し、船體は之に進航を遮ぎられると共に背後よりも包み込まれて終ひ、進退維れ谷まつて終つた。
此時西川隊員、安田船工、山邊、花守、兩アイヌの四人は、船から氷盤上に下り、シャビル、バケットを以て雪を掬ひ、四斗樽並に犬の料水槽に運び込んだ。
船は漸く血路を開く
此機敏なる動作のうちに、船は漸く血路を開き、辛うじて突貫けることを得た。
最初汽走のみの時、前進を阻止されて終つたので、折からの風力を利用し、總帆を展開して、漸く突進したので、氷盤上の雪の掬集は、帆を張る間の早手業であつたのだ。
斯くてホッと一ト息を吐く間もなく、第二の氷群は來襲した。
併し幸にして今回のは、少し軟かで、且つ小型であつた爲め、前回に比して容易に突貫けることを得た。
併し骨の折れたのは前回同様であつた。
此時に輓犬一頭を試みに氷盤上に下すと、犬は喜んで走り廻つたが、結氷の薄弱なる部分へ行くと、前肢が海中に陷りさうになるので、尻込みする狀は頗る滑稽であつた。
氷盤の裂目より大海豹
又た此時下方の氷盤と氷盤との間から二回程海豹が首を出したので、花守アイヌは早速銃を持つて擊たうとしたが、其れつ限りで、首を出さなかつた。
四十四年も餘すところ三日
恨多き明治四十四年も、餘す處纔かに三日なる十二月二十九日は朝來雲翳なく、出帆以來の快晴なので、甲板も亦た出帆以來の賑ひを呈し、洋々たる喜色、靄々たる和氣は、開南丸に滿ち充ちた。
波瀾を經たる平和は、活ける平和である。船長は船の安全の爲めに人事の限りを盡さうとする。
隊長は少々の危險を冒しても上陸を急がうとする。
孰れも共に此事業に生を賭した人、死を決した人である以上、雙方に五分々々の理はある。
そこで双方は互に讓つて、隊長は船長を急がせ乍らも其人を信じ、船長は隊長の意を諒として、益々努力の度を高める。
出帆以來の快晴
斯くして漸く連日の氷圍を脱し、今日は幸にも無氷海に入り、出帆以來の快晴を迎へ、こゝに双方は、お互に事業の爲めに議論を交へた効の顕はれたのを笑つて喜んだ。
之こそ眞の平和である。
而して幹部の融合は即ち部下の融合である。
前途には目的のロッス海が目捷の間に控えて居る。
油斷は出來ぬが先づ〱此分ならば大丈夫と、總員は出帆以來の愁眉を開き連日の難航を語り艸とした。
太陽水平線下に沒せず
太陽は前日頃から頭上で環狀を描くのみで、更に水平線下に沒しない。
全くの永晝である。
甲板より見亘す四方の海面は、波收まつて一片の氷痕もなく、船は和風に帆を張りつゝ南進して居る。
鯨群は潮柱を立つ 甲板に集まりし鳥眼瞰
行手の波、間時々鯨群は潮柱を立て、それが日光に映じて美はしき虹を彩どる。
さて、甲板に集つた連中の行動の鳥眼瞰を示すと、隊長は多田、村松の兩隊員に命じて蓄音機に耳を娯ませて居る。
當直船員等は各々甲板上の作業に勞して居る。
花守、山邊の兩アイヌは、池田學士の寢袋裁縫に餘念なく、床屋は鋏をバチ付かせて、非番船員の髪をチョキ〱やつて居る。
安田船工は海深計の製作をなし、天狗連の圍碁は二三の彌次馬連に取圍まれて興を湧かせて居る。
三井所部長は寫眞機の革細工を試み、武田部長はコンパスの差異を調べて居る。
又た中には銃を手にして甲板を右往左往する者あれば、欄平に凭つて雲や波のスケッチに夢中になつて居る者もある。
而して此等の連中を田泉技師は、一々活動寫眞に撮影して居る。
甲板の處々には稀に逢ふた快晴とて、好機逸すべからずと、久しく日光に曝さなかつた寢具を干し連ねてある。すべてが恁ふして長閑さうである。
太平らしく見へる。
處が、此平和は、天候の劇變を以て名ある南極の海上とて、久しきに亘ることを許さなかつた。
午後四時太陽が一片の雲中に其光を隠すと共に寒氣急に加はり、やがて午后十時に至るや、吹雪さへ襲來した。
そして半雪半曇の天候は、翌三十日と、翌々三十一日とに續き、氣溫は著るしく下降し、船の傾斜は絶えず三十五度位に達した。
迎年準備成る
併し此日の快晴は、何れ丈け總員の健康を增進したか知れぬ。
殊に此日を利用して整へられた迎年の準備は、他の風雪の日の十日以上に相當するものであつた。
元旦來れり
元旦は來た。
希望多き明治四十五年の元旦は來た。
船中の拜賀式
總員は爽昧より起出て、隊服隊帽整然として、隊長室に至り、先づ上兩陛下の御眞影に禮拜し、次いで各員互ひに新春の慶詞を交換した。
門松〆飾のない元朝ではあるが、前途に光明の輝やいて居る年の始めとて、一夜明くれば氣も變
るの諺に洩れず、總員の顏には何となく元氣が溢れて居て、笑ひさゞめく聲も、自から活氣を帶びて聞かれる。
屠蘇に代ゆる葡萄酒の祝盃
午前七時三十分、雑煮の祝が始まつた。
下戸も上戸も、一盞の葡萄酒を屠蘇の盃に代へ、さて祝ふ雑煮の椀數、餅の數、二年振の故郷の味を鱈腹賞翫し、厨夫の忙しげに餅焼くさまも、亦た新春の一畫題である。
午前十時から甲板上で、遙かに皇居に向ひ、遙拜の式を擧げる筈であつたが、南風猛烈を極め、怒濤甲板を洗ふといふ始末ゆゑ、已むを得ず一兩日延期することにした。
正午一同は祝儀の引出物を分配した。
添付されたる目錄を披くと、鯣一枚、淡雪(餅米製菓)一箱、鯛一尾、ビスケット十五枚とある。
一同は鯛一尾とあるのは、何れ滓漬か乾物の鯛であらうと思つた處が、豈に圖らんや、鯛と申すは立派な大鯛の焼物、驚くなかれ目の下八分といふ稀代の大鯛、正體はぎすけ煮と知れたので、ドッといふ哄笑の聲は船内に漲り渡つた。
ストーブ會議に花を咲かす
兎に角風波が荒いので、室内餘興も延期と決し、煖爐會議に花を咲かせて此一日を暮したが、翌二日に至つても、強風は依然として吹き荒んで居る。
併し波だけは稍や和らいだやうである。
海鳥を見て陸地の接近を知る 雲烟糢糊裡に山岳を認む
甲板に出て見ると、空翔ける海鳥漸く多く、船の陸地に近づいたことが解る。
夕刻花守アイヌは、南方雲烟糢糊の間に、山岳を認めたと云つたが、一天の曇色濛々として遂に實測は出來ずに終つた。
翌くれば三日、今日は快晴で、波濤靜穏、軟風徐ろに海面を吹き、飛ぶ水禽の羽翼も長閑さうに見える。
萬歳の絶叫
午前七時、島事務長は、『陸だッ〱、陸が見えたぞッ』と、喜ばしげに各室へ觸れ廻つたので總員はドヤ〱と上甲板に集まり何れも萬歳々々を絶叫して景氣づく。
一行喜色満面に溢る
取わけ隊長の喜面と船長の欣顏とは出帆以來の血色を呈した。
身に沁み渡る寒風の凛烈たる中に佇立して遙かに針路を見亘すと、卷層雲の切間から、白姿の連山糢糊として現はれ、針の如き高峰の絶巓奥へ〱と立並ぶ。
雄大なる陸影眼界に映ず
此雄大なる陸影は、幾多日、水と雲と氷との外何者をも見なかつた總員の眼には又なく懐かしき景物として映じたのである。
愈々南極の玄関口に来れり
『いよ〱南極の玄關口へ來たのだ群山は吾等を出迎へて居るのだ』と思へば、心躍りて覺えず痛快!を叫びたくなる。
是等の群山、連峰は、サウスヴヰクトリア州の西端に位するアドミラル山脈の一帶で、アドムミント、ロビンソン等の峻巓、萬尺高く天を衝き、壯觀無比、南極地方ならでは到底見られぬ絶景である。
陸影漸く展開す
船の進むに隨ひ、陸影漸く展開し、ロバートソン灣南岸の氷山、雪野は皓として、視界に入り、層雲中よりアデレー岬の高臺、屹として現はる。
此邊は一帶の絶壁で三十度乃至四十度の傾斜を示せる雪畦連亙し、處々の氷雪の融解部は班々たる黑點を露はして居る。
火山岩の露出
試みに十五哩の沖から望遠鏡を透して見ると、一帶の丘陵は悉く氷岩より成つたもので、光線の反射の爲めに岩石かの如く見ゆるので、融解部の黑色を呈せる斑點は、全く火山岩の露出したものであることが知られた。
鮮やかに眼前に立ちホエウエルの白姿
先きに見えたる連峰は、此半島の後方に聳立し、白雲層中に隠見出沒して居たが、やがて午前十時に至るや、前年スコット大佐の地理研究分隊の上陸したる、アデレー岬も、既に船尾の位置に退き、針路にはホエウエルの白姿愈よ鮮やかに眼前に立ち、再逢のサビネ山も次第に後方に遠ざかり、淡く積層雲中に其白頂を露はして居る。
萬歳を三唱
此風景を背景として、午後一時より學術室外上甲板に於て、延期中であつた元旦遙拜式は擧行された。各員は防寒服裝にて整列するや、隊長は北方に面し、遙かに皇居に向つて式辭を朗讀し、終つて陛下の萬歳を三唱した。
波間に出没せるペングイーン鳥の一隊
此式の爲めに特に掲揚せられたる帆檣上の國旗、隊旗は、軟かき波風に翻りつ、一波動かぬ疊の如き波間には、鮪の遊泳かと思はるる態度して、ペングイン鳥の一隊巧みに波間を出沒し、又遠近の岸邊には、ペグイギン鳥の奇聲斷又續折しも舷上萬歳を三唱の聲に和して、寂々たる天地に反響して居る。
やがて、夕陽斜めに針路を照すと共に、赤色の水平線上に帽子形の大小數箇の島影は、點々として視界に入り來つた。
ボッセッション群島視界に入る
之れはペングイン鳥の巣窟として名高き、ボッセッション群島である。
船は斯く陸岸近き航路を進んだが、程なくロッス海に突入せんとした時、水平線忽ち起伏し、見る〱無數の氷塊は、船を目蒐けて來襲する。
流氷の群來益々多し 深藍色の海波
こは大變と、船は早々沖へ〱と轉進したが、流氷の群來益々多く、何れも解殘りと見えて、或は鼎の如く、或は釣鐘の如き、畸形狀のものも打交り、深藍色の海波に隠見しつゝ漂流して來る。
それが、時々船端に衝突する毎に、又た例の不快なる異響を發する。
靜穏なるロッス海
船は速力を早めて東北に轉針すること數刻の後流氷漸く減じたので、再び平穏なるロッス海の碧波上に浮び出ることが出來た。
此ロッス海の波は、全く外洋と區別せられて靜穏なること油を流せし如く、又た海上ペングイン鳥の繁殖頗る多く、奇態なる遊泳の態は、慥かに極海の一景として數へる丈けの價値がある。
此日太陽は、午前零時五十四分に、南水平線三度三十分まで沈下したが、後ち直ちに旭日となりて東方より北方にと上昇した。
併し夕陽と朝陽との光線の強弱とか變化の模様等は、普通の日出、日沒時のそれと、少しの差異も無いやうである。
翌四日、右舷にハースチエール、ピーコック等の諸峰の聳立するを見て進む。
一帶の海岸には斷岩起伏連亘し、白雪の爲めに斷續として處々に黑色を呈して居る。
流石にロッス海の波は、細波も立てぬ靜かさで、小流氷の極めて稀に散在する間に、極鯨は悠然として潮柱を立て連ね、ペングイン鳥、海燕、海鴨等の水禽は縦横に飛翔して居る。
船は海流に乘じ居れり
此邊海上に海流の存在することは、シドニーにてデビッド教授よりの注意もあつたが、果然船は其海流に乘じて居たことが知れた。
海流の速力は四浬強で、陸岸近くを通過して西北に向うて居るが爲め、逆航せる船は當然、大に速力を減殺せられた。
現に今朝通過したる、ダウンショーア岬も數刻の後なほ船の右舷に見るといふ始末であつた。
そこで船首を東北に轉じて、只管陸岸を離れる工夫をして、正午漸く二十哩沖へ出た爲めに先づ海流の範圍を脱出することを得た。
折しも陸影は既に眼底より去らんとし、只だ連峰の絶巓のみが水平線上に林立して見える。此時行手遙かに一點の黑子を認めた。
隊長は、双眼鏡を手にし乍ら、島か、船かと、判斷に苦んで居たが、やがて高川舵手が帆檣上の見張櫓よりの展望によつて、慥かに一箇の氷山なることが知れた。
非常なる雲形美を現す
午後八時太陽が、西南方水平線上三竿の高さに至つた時、卷層の亂雲東北に長く立罩め、非常なる雲形美を現はした。
又月暈の一部現はれ、太陽より右方の雲外より靑紫、黄、赤と、二尺許の幅員を以て六尺ばかり弧狀形に現はれ、光彩燦爛たる美觀を呈したが、三十分の後消滅した。
銀山の倒影は長く海波に映ず
午後十一時、右舷にコールマン島を水天髣髴の間に認めたが、時しも夕陽將さに地平線に近づかんとし、銀山の倒影は長く海波に映じつゝ、非常なる壯觀を呈した。
氷上に大海豹の横臥
翌五日午前八時、船の進行中、左舷約一哩の沖合を流れ來る十間四方位と思ふ一箇の氷塊上に、大海豹の横臥して居るのを認めた。
海豹狩に出掛く
柴田船員と山邊、花守の兩アイヌとは、『こりや素敵な逸物だ、前囘取迯した奴とは違つて、此れ位の奴になると、敵にしても手應へがあるッ』と云ふので、早速船長に交渉して船を停めて貰ひ、短艇を海上に卸すや否や、一挺の獵銃と二本の六尺棒とを用意し、三人の勇士は擢を急がせつゝ流氷目蒐けて一直線に漕ぎ進んだ。
斯くとは知らぬ氷上の海豹は、春眠曉を覺えず位の心持で、グーゝ寢込んで居ると急航した三勇士のうち花守、柴田の兩戰士は、ヒラリと氷上に飛乘るや否や手の六尺棒に滿身の力量を打籠め、バタゞゝと馳せ付けて、一人は眞向から、他の一人は横合から不意に一棒づゝお見舞申した。
すると海豹の先生、ムクリと首を擡げたが變な敵の襲擊に聊か狼狽し、水中へ潜り込ふとして、のたり〱と逃出さうとする、此方の勇士は、何を小癪な!迯がして溜るものかいと、柴田戰士が、一生懸命の腕力を集めた第三の棒を、「エーイッ」の懸聲と共に擊下した。
と同時に、機こそ來れと銃口を擬して居た山邊戰士は、今だッ!とばかり、轟然一發!、又一發!二彈の連發命中と共に、さしも巨大の海豹も、美ン事往生仕つた。
氷上の三勇士は、各々兩手を高くさし上げて、船へ戰捷の信號をすると船からは「萬歳々々」を連呼して立騷ぐ。
狩猟隊の萬歳
やがて黑く長き海豹は、氷塊側の短艇内に運入れられ、艪音勇ましく、凱歌を奏して歸船すると、船からは早速トモ綱を短艇に投げ、太綱にて滑車を利用しつゝ、エンヤ〱と五六人で、戰利品の引揚げを行ふ。
甲板へ引揚げて見ると、強か頭部に負傷して、既にそれが致命傷で絶命し居り、鶏卵大の大眼球は、無慘にも飛出して居て、淋璃たる鮮血は甲板を唐紅に染め成した。
此海豹は、身長七尺、胴の太さ四尺、重量四十貫、全身黄褐色を帶び、牝性である。
隊長は花守、山邊の兩アイヌに料理方を命ずると、兩人は早速六寸ばかりの小刀を手にし、多年鍛へた海獸料理の腕の冴へ工合は、斯の通りで厶いとばかりに、先づ海豹を仰臥せしめ、腹から眞一文字に刀を入れて、皮と肉とを剥ぎ初めた。
流石、極寒の氷海中に棲息する動物だけに脂肪の厚さ一寸五分に達して居る。
指揮役の隊長は、豫て北洋の探檢に於て、十分の經驗ある事とて却々精しいものである。
其説明に由ると、脂肪は燃料となり、搾汁にすると燈油の代用ともなる。
肉は一種の臭氣を有するも、一度湯出して煑ると優に食卓に上すことが出來る。
又其犬牙は、細工物の材料に適して居ると。
切開された肉を見ると、其色紫黑色を呈し、體軀の割合に少量である。
即ち臟腑が全身の三分の二を占めて居る。武田三井所、兩部長は、胃腑の解剖研究を試みたが、其結果食料は、烏賊、等の魚族であることが知れた。
又た胃囊中には、約二吋大の帶褐黄色の寄生蟲約百箇の存在を認めた。
又た一分乃至一分二厘位の無數の白球をも認めたが、之は食へる魚類の眼球なることが知れた。
尙ほ十二支膓周圍の壁に一種の房狀を成し、其形狀ひるの如きもの五六十個、一塊となりて寄生し居るを發見した。
且つ其鰭は、四足の退歩したものなることは明白である。
即ち前後四箇の扁平三角形の鰭の外面には、明かに五個の爪を有し、陸上動物の如き、指骨、蹠骨を合生して居る。
約二時間の後、料理は終つた、四斗樽一杯の臟腑と脂肪とは、犬の食料にすることとし、最上肉は食卓用に供し、皮は鹽漬となして標本の一に保存し、甲板の血汐は、洗流す代りに、綺麗に犬に啜らせた。
水晶島上の點々たる黑影
同じ日の午後二時頃、コールマン島は既に背後に沒し、水天相接する處氷塊の遠近に浮遊するを見るのみなる時しも、突如右舷に當つて現はれ來つた一面の流氷、方一哩の水晶島上に、點々たる黑影を認めた。
見張船員は。
『アレ〱ペングインが居るッ』と叫んだ。
ペングイン鳥狩
其聲に應じて滿船の勇士は甲板上に立現はれた、そして異口同音に。
『ペングイン鳥狩をやらう』と、動議と決議とは同時に成立した。
朝來の海豹狩に勇み立た折とて、船長も快く再び停船命令を下した。
やがて、短艇が洋上に卸されると同時に乘込んだ戰士の面々は、西川、渡邊(近)、渡邊(鬼)、花守の四人、一艇の鐵砲を艇内に準備し、欵乃勇ましく、水晶島指して、漕ぎ出した。
此時甲板には、隊長を始め總員一同、結果や如何にと、片唾を呑んで監視して居ると此方の短艇はやがて氷面の隆起部の背後に漕ぎ寄せて、先づ敵に悟られない方略、作戰計畫は却々巧妙なものである。
と見る數分後、高所に立居たる三羽のペングイン鳥は、人の近づいたのを知つたと見え、翼を擴げて聊か恐怖の態度を示すかと見た。
ペングイン鳥との活劇
次の瞬間濁つたガア〱といふ鳴聲を立てた。
それと同時に一方の氷の陰から、突如渡邊(鬼)戰士立現はれ、素早く一羽を手捕りにし、驚き逃ぐる他の奴を、追驅け廻して居るうちに花守戰士も上り來り、大活劇の後漸つと二羽とも小脇にかい込み、氷の陰に姿を消したが、程なく短艇は二人を收容し逃げ惑ふて居る、前方の他の二羽を攻擊すべく急漕した。
やがて短艇が氷塊の岸に近づくと、再び渡邊(鬼)戰士は、飛鳥の如くヒラリと身を躍らせて飛上り、手馴付ける如き仕草を以て、稍や近寄りかけたが、敵もさる者、何條沈默を守らうぞ。例のガア〱を連呼しながら、少々亂調子で飛廻り、跳廻り、容易に人手に入りさうも無い。
其うち花守は、再び立現はれて助太刀に加はつた。
二人に二羽の取組
斯くて二人に二羽の好取組、鳥も人も立つたり轉んだりの大立廻り、滑稽とも何とも形容の出來ぬ活劇振には、見物役の甲板の連中は、各々腹を抱へて笑ひ倒れた。
やがて、此二羽も遂に捕虜となつて短艇に載せられ、凱歌高く母船へ漕ぎ歸つたが、又もや前方の浮氷上に、數羽の敵を發見したので、短艇は其儘船と共に駢進し、約二十分後に第二の活劇の幕が開かれた。
今回の乘組戰士は、村松、渡邊(鬼)、花守、吉野の四人、何れも輕裝して漕ぎ進んだ。
前回には鐵砲の必要が無かつたのに鑑み、今回は携帶せずに出發した。
短艇は間もなく浮氷の岸に着いた。
見ると宛らの一小島、振り積む雪は結氷して、絶えず打寄る波浪の爲めに浸蝕せられ、宛ど船蟲の害を被つた木材のやうになつて居る。
先づ渡邊戰士が飛上ると、續いて村松、吉野、花守といふ順で氷上に立つ。
と氷面上の水鳥特有の惡臭は、プンと四人の鼻を衝く。
そこで四人は四方から、四羽のペングイン鳥を敵として、包圍攻擊を開始したが、其結果難なく三羽は生捕られた。
即ち二羽は吉野戰士の手中一羽は村松戰士の手中に收められた。捕はれたペングイン鳥は、太くて短い嘴を開け、黄色の口内を見せ、苦しさうな聲を張上げて鳴いて居る。
こゝに殘念なのは、今一羽の敵の行衛を見失つたことである。
何とかして搜し出し、是非とも其奴も捕虜とし、此水晶島の全軍鏖滅を完ふせねばならぬと、手を分けて頻りに捜索したが、見當らぬ。
すると船から隊長が、右方の一角を指して、『アッ居る〱、其處に居るッ』と注意呼ばゝりして居るので、早々眼を轉じて見ると、巧みに逃げたペン先生、一たびは水中に身を潜めたが、同志の面々の運命見届けの爲めとあつて、氷岸の一角に立つて、此方を凝と見て居る。
生擒の目的を達せり
『ソレッ』と云ふので四人一齊に立向はふとしたが、何分其位置は、削つた如き危壁の彼方とて、氣は焦つても、足の踏場も無い地勢。
そこで陸軍の方は斷念して、海軍の方に據ることゝし、村松渡邊の二戰士は、短艇で其方に出向ひ、麓から段々と高所に追上げて、辛つと生擒の目的を達した。
一體此強敵を、何うして然う巧みに捕虜に出來たかと云ふに、ペングイン鳥は兎とは反對で、高所に登る事の拙劣さ加減は、何とも形容の出來ぬ不様な態度である。
其代り低所に向ふ時の迅さは、却々侮り難き速力である。
珍客を捕虜室に好遇す
三十分に亘つた此戰闘の後、短艇は船へと引返した。前後二回の戰ひに、八羽の捕虜を獲たので、珍客として特に捕虜室をば學術室外側の一劃に設け欵待至らざる莫き好遇を與へた。
是等の珍客は、アデレー岬附近特産のアデレー、ペングインで、皆一様に變な所へ來たワイとでも思つたが、最初は甲板上は右方左方に飛び廻り、人を見て逃げるかと思ふと、犬を見ては例の駄聲を張り上げて大喝一聲威嚇する如き姿勢を示すなど、滑稽至極である。
學術部では是非健全の儘で母國へ携歸らうと云ふので、食物に就て種々の研究を試みた。
滑稽なるペングイン鳥の態度
取敢へず蝦、蟹、貝の柱等を與へて見たが此文明の食物には目も呉れず、時々滑稽の態度をして、仲間同志で突合ひ、嘴と嘴とで接吻しては今日の不運を嘆ち顏なのも可笑しい。
尾籠な話であるが、牛乳にココアを混へたやうな脱糞をして、船中の人々の鼻を摘ませた。
兎に角、此日は愉快な一日であつた。
殊に此場所は、前回の航海に、惡戰苦闘の末、遂に退却の已むなきに至つた海上である。
初獵の祝盞を酌む
斯かる記念の場所に於て、偶然にも海獣と水鳥との征服に大捷を占めたことゝて幸先よしと一同は、初獵祝として隊長から出されたブランデーの盞を擧げつゝ、夜を徹して笑ひ興じたのである。
翌六日朝、隊長は吉野臨時厨手に命じて、海豹の料理に取掛らせた。
隊長は海豹料理の指揮役
前日の晩餐に、海豹のスキ焼を試みたが、惡臭が強くて一箸も食はれないので、今朝は隊長自ら料理場に出馬して指揮することになつたのである。
先づ海水にて丁寧に二度ばかり湯出し、後ち脂肪にて煎るのである。
試みに之を食ふと牛肉の如き味で、些の臭氣なく、却々の美味である。
『此料理法は、砂糖も醤油も要らず、經濟的であつて、手數も掛らぬ、而も美味であるから、先づ理想的料理法と稱してもよからう』と御自慢であつた。
海豹脂肪の燃料
尙ほ海豹の脂肪は、餅切大一箇で湯を沸すに足り、拳大に切つて用ふると、機罐の焚料に好適して居る。
ペングイン鳥は、其後食ひもせず又飲みもせず只昨日よりは餘程落着き氣味である。
同時に疲勞は加はつたらしく、首を縮め、白き緣ある眼を閉ぢて、三十度といふ角度にまで兩翼を擴げ重き身體の平衡を取りつゝ、時々坐睡の體である。
が大體に於て別狀はない。
相變らず惡臭は近づく者の鼻を撲つこと甚だしい。
此朝一羽は、高川舵手の手により、本剝製とすべく絞殺し、皮を脱いで肉は早々料理せられた。
味噌煮の爲めか一寸賞味に値した。
ペングイン鳥の胃中より小石を得
從來の探檢家は、海豹並にペングイン鳥の肉は、到底食用に値せぬと云つて居るのは全く料理法の不適當なのに因る事を明かにし得た。
解剖の結果、胃嚢中に小石二三個(徑二分位)を得た。
之は消化を助くる爲めに呑んだものだらう。
ペングイン鳥の食料は研究の結果、生ける小魚である事が解つたが、到底其等の食餌を給すること不可能なので、全部絞殺に決し、コロヽホルムを用ふることにしたが、却々絶命しなかつた。
尙ほ海豹の臟腑及び脂肪を食した。
輓犬は五日夜と六日とに亘つて、激烈なる吐瀉下痢を催ふしたが、之は食中りの爲めか、或は過食の爲めか、今猶ほ不明である。
十日、船はロッス海の碧波を截つて、東南の航路に進んで居る。
朝來前方の水平線は氷の反射により、朦朧として白く輝いて居る。
甲板は頬を裂かんばかりの寒氣
之は氷堤の視界に入ることの近き時間内に在るを證するもので、吹き來る寒風は凛烈として、甲板に立つ者の頬を裂かんばかりである。
二百尺の大氷堤眼界に入る
午後二時、檣頭見張櫓より高川舵手は、『氷堤が見えます!』と當直船員に報告を齎らしたので、總員は舷端に立並んで今か〱と待ち受けて居ると、やがて、水平線の朦朧たる白輝は次第に其光度を增し、午後四時に至つて、目測二百尺位の一大氷堤は、漸く眼界に入り來つた。
見亘せば船首より右舷の水平線に沿うて、約三十哩の延長を有する氷堤は、宛も一長白幕を張聯ねたるが如く連亘し、光線の反射は白雲に映じ碧波を染め實に莊嚴雄大の景致を示した。
ペングイン鳥の聲に征旅の夢を亂さる
風位の順を得ざる爲め、船は此氷堤に沿うて約十哩の沖を東東北に航し、夜はペングイン鳥の聲に夢幾度か亂されつゝ進んだが、翌十一日朝に至れば、氷堤は近く右舷三哩の邊に連亘し居り、折しも油凪ぎの海上には、鯨群の潮柱林の如く立並び、吹き上ぐる遠近の潮の響は、寂たる天地の夢を破つて居る。
氷堤は恰も萬里の長城を望む如し
夜中風位の西轉せるより船は氷堤に沿うて東航を急いだが、氷堤は次第に其延長線を長うし、見亘す前後の水平線に連亘し、宛も雪霽れし晨、月白き夕、遙かに萬里の長城を望むが如くである。
幻日現はる
午後十一時頃、夕陽西に斜めにして其周圍の白雲いとゞ密なる折しもあれ、太陽を中心として各々直角なる箇所に四箇の幻日を現はした。
其幻日は目測三間ばかりの徑を以て、虹かと思はるゝ圓を描くのであるが、其光輪の色彩は、外部より靑黄紫赤の順序で、却々の美觀である。
卷層雲の奇しき戯れも、四十分間の後消滅すると同時に、船は何時しか流氷海に突入したので、直ちに針路を北々西に轉じ、二百尺許の氷堤に沿うて退いた。
途上流氷の頂には、ペングイン鳥あり、海豹あり、甲板の勇士は、之を見て曩日の勇壯痛快なりし狩獵の光景を思泛べ、脾肉の嘆に堪へなかつたが、前途を急ぐ今の場合とて送りては迎へ、迎へては送り次第に氷圍を離れゆく。
ペン先のインキ氷結す
今日は日誌を認むるに際し、ペン先にインキ氷結して意に任せぬ。
氣溫の著るしき下降は之によつても知らるゝ。
翌れば十二日、上陸地點の鯨灣は次第に右舷に近づいた。
併し其中間に一大浮集氷の遊漂すると、大小無數の氷山の群立との爲めに船は右曲又左折、例の縫航を以て血路を開くべく苦心したが、帆走と汽走との緩急は幸い宜しきを得たので、一進一退の後辛ふじて氷塊の稀少なる海上に出た。
深藍色を呈する右舷海上の水平線は氷群にて白色の一線を成し、其上部に連峯は峨々として聳立して居る。
南極特有の幻嶽
此上部の連峯は實物でなく、之ぞ一種の蜃氣楼、南極特有の幻嶽である。
一旦減少した氷塊は、午後に至つて再び針路を遮ぎらうとした。
船は其う幾度も阻遮せられては、際限もないので、進める丈けは進まんものと、前進に主力を盡したが、氷塊は進むに從ひ益々厚く、且つ密なる爲め開南丸の小馬力では、到底突破することの絶望なるより、遺憾ながら又々退却と決して轉針した。
去九日以來日夜、少しの怠りなく上陸準備を整へつゝあつた隊員連は、又もや退却と聞いて非常なる落膽をした。
一同の心中は誠に左こそと察せられる。
一隊の鯱群悠々舷側に來襲
退却の途上、午后零時三十分頃、二十餘尾より成る一隊の鯱群は船を鯨敵とや思ひけん、太さ各々一丈、長さ二間、頭部より背部に幅六七寸の白斑紋を有する此一隊は、各々三尺許、劍の如き鰭を水上に現はしつゝ、悠々と船の舷側近くに來襲した。
最初一隊中の二三尾は右舷三四間の近距離まで迫り來り、艫より左舷へと廻つて、斥候の任務を全ふしたが正體が知れたと見えて、斥候が一隊に合すると共に、遂に落膽せるものゝ如く南方さして逸走し去つた。
アイヌの鯱群禮拝
此時花守、山邊の兩アイヌは海上の鯱群に禮拝し、頻りに祈願を籠むる様子であつた。
後にて聞けば鯱といふ魚は、海の神使で、神と同様に尊崇すべきものである。
樺太に於ては古來の習慣で、毎年二回鯨を捕獲して、濱邊に繋ぎ置き鯱の神に御供として捧げるのである。
兩アイヌは斯ふ説明して後。
『我開南丸も斯く鯱の神に守護されて居る以上、前途は必ず大丈夫である、』と云つて尙ほも海上を幾たゝび禮拜した。
十三日午前二時、又々群氷來襲し、同四時に至つて最も多かつたが、同七時三十五分漸く氷圍を脱して漫々たる碧波上に出た。
忽然山岳の如き大氷山現る
其時忽然山岳の如き大氷山右舷に現はれ出で、不意の事とて大に乘員の膽を寒からしめたが、併し船首を轉じて危險を逃れ得た處で、試みに舷頭より之を望むと、其絶景實に筆紙に盡し難く、坐ろに畫筆の才なきを嘆ぜしめた。
南極の崇高なる自然美
見よ氷山の高さは數百尺に達し、周圍八九哩に及び、大小の群氷之を圍繞し、海燕は點々として其前後に群翔し、又なき雄大の景なるさへあるに、折しも一痕の半月は淡く檣頭に掛り加ふるに幻日出現して雲に映じ波に映じ、又た氷山に反映して、人をして南極の自然美の斯くまでに崇高なるかに驚嘆せしめ、恍惚たらしめた。
此天下の絶景に對し、總員しばし航路難を忘れつゝあつたうち、船は又もや大氷群に襲擊せられ、一進一退、轉針定めなき難航に陷ゐつた。
一望皚たる浮氷は、針路の海上より遠く水平線に連り、廣漠たる一大氷野を展開して居る。
船は其緣邊に沿うて東方に、一大迂航するの外なきも、さりとて其緣邊の那所に至つて盡くるかを知らず。
之には流石勇悍老練の船長も長大息を發し、隊長は眉を蹙めて航路難を嘆じた。
此時隊長は、船長と討議の末、取敢えず東方へ迂航のことに決したが、船の碎氷力の薄弱なるの一事は、返すゞも總員の遺憾とする所であつた。
そこで隊長の決心は、迂航の上、能ふ丈け上陸地點最近の位置まで船を進めたる上、若し不幸にも其れ以上の突進、不可能と決した曉は、上陸隊はこゝに短艇を艤し、氷上行軍を決行し身命を賭して上陸の目的を達しやうと云ふのであつた。隊長の此決心は最早動かすべからざるものなので、上陸準備は更に完全を期することゝなつた。
船長も隊長の此賭世の大決心を聞いて感激し。
人事の最善を盡して已まん 目的の氷堤まで三四十哩
『船長不肖と雖も「人事の最善を盡して已まん』と誓うた。
船は豫定の航路に就いて進むに從ひ、氷堤は遂に視界を脱したが、測量によれば、目的の氷堤までは三十哩乃至四十哩の距離である。
翌十四日を迎ふるも、前面は依然たる氷塊の海であつたが、極力縫航に努めた結果、漸く南進の一航路を發見し、長時間の後ち聊か愁眉を開くを得たのは、天、全く決死的一行の切なる至情を諒とした爲めでもあらう歟。
斯くて南進又南進、航しゆく海上、處々の流氷上には、ペングイン鳥、海豹の群を成すもの夥しく、滿船の勇士は腕を扼して。
『捕りたいなァ、捕りたいなァ』
午前六時、右舷數十歩を流るゝ氷塊上に、夢も圓かに睡れる一頭の海豹を發見したので、もう矢も楯も堪らなくなつた連中は。
六尺棒を振翳して大海豹狩
『ソリャ海豹だ、捕らう〱』と、早々短艇を海上に卸し、柴田、花守の二戰士は、之に打乘り、例の六尺棒を眞向に振翳して、難なく數擊の下に捕獲した。
すると、又もや一頭他の氷上に横はつて居るので、『序でにやつゝけろ』とばかり、之も約二十分を以て捕獲する。
次いで、又一頭左舷に來り、續いて二頭又は三頭と、幾つでも氷に乘つて流れて來る。
海豹討伐隊の好成績
一體海豹は、氷上では活動甚だ遅鈍なる爲め、發見するに從うて此方の手中の物となる。
宛ら遺ちたるを拾ふに異ならぬ。
斯くて前後數回の討伐隊は、成績何れも良好で、遂に夕刻までに十二頭を捕獲した。
物資補充には此上なき天與の賜物、拜領せねば反つて天罰が恐ろしい位である。
三井所部長、高川船員、の兩名は、試みに中帆檣の物見櫓に上つて沖合を見ると、白き流氷上に黑き海豹の數は、一寸數へたゞけで三十三頭にも上つた。
翌十五日は、捕獲した海豹の料理で、却々賑はつた。
併し船の方は、又もや氷圍に陷ゐつたので、例の右回左轉に努力し、苦心慘憺の末辛ふじて、一條の血路を得たが、此日の氷群は何れも蝙蝠の羽翼狀を成し、其上には數十の海豹點々として横はつて居る。
前日の大獵で當分は十分なので別に捕獲はしなかつた。
三十餘頭の海豹を乘せし氷塊
海豹を乘せた氷塊の、舷側を通過する時、折々甲板上から高聲を發すると、海豹の先生訝かしげに、首を擧げて四方を見廻す、其態度の悠々迫らざるところ、慥かに大英雄の面影がある。
十六日、一たび减少した群氷は又々船を包圍して、前進を阻止すること幾度かに及んだが、百方難航の末、漸く一方に血路を開いて突破した。
午前二時左舷の水平線上に、雲か山かと思はるゝ一抹の淡灰色を認めたが、やがて、同四時二十分に至つて、それは氷堤の連亘せるものと知れた。
半月形を爲せる氷堤
船の近づくと共に愈よ鮮かで一望半月形を示せる目測百五十尺位の氷堤は、白屏風を並べたるが如く、又た大白蛇の横臥せるにも似て居る。
見渡す海上、流氷は幸に片影なく、ロツス海の特徴とも云ふべき細波は、一碧油の如くである。其上を船は今帆汽兩走を以て、全力を費やしつゝ駛つて居る。
此地點は鯨灣の東方三十哩の海上である處から上陸はエドワード七世州に變更する方、得策ならんとの提議もあつたので、結局それに一決し、氷堤まで一哩といふ近距離に船を進め、それより氷堤に並行して上陸地點の探査をなしつゝ東航した。
氷堤の處々に洞穴及び龜裂あり
右舷を見ると、氷堤には、洞穴及び龜裂處々に在つて、其近きものは海水に映じて深藍色を呈し其遠きものは點々として墨痕を呈して居る。
硝子棒を吊下げし如き氷柱
又た凸たる斷層からは、宛も硝子棒を無數に、吊下げしが如き氷柱垂れ下り、堤下を奔る潮流は瑠璃の如く、其氷柱に反映して居る。
氷堤試験の實弾一發
此時、突如前甲板上に一發の銃聲轟き渡つた。
之は武田學術部長が將さに落んとせる、氷堤の强弱を知らんが爲めに、射擊を試みたのであつた。
其結果件の氷柱は、頗る堅固なる氷結物であることを確證した。
希くは十二珊砲あれ
銃を杖にした武田部長は、『十二珊砲一發あれば、ズドンと氷堤に穴を明けて、随意の箇所に上陸が出來るになァ』と長大息!。
午前七時三十分、船は氷堤の一突角に沿うて廻ると、其處には一小灣の東西約二哩奥行約一哩に展開されて居るのを發見した。
上陸し得べく見ゆる一灣あり
群峰は灣の奥に聳立し、岸邊は氷堤斷絶して、波打際は棧橋の如く低く且つ平かである。
兎に角上陸には適當らしいので、船を灣内に進めることにした。
灣上實地蹈査の爲め端艇派遣
船の停止と共に武田學術部長、土屋一等運轉士、渡邊船員、花守隊員の四名は、船尾に卸されたる短艇に移乘し、隊長の命を含んで灣上の實地蹈査を試みるべく漕ぎ進んだ。
折しも太陽は雲間を出て、左右の銀堤は燦然として碧波に映じて居る。
短艇は赤旗高く飜へして、次第に灣岸に近づくと、船は徐ろに艇尾を追うて進みゆく。
大海豹と格鬪の三十分間
時しも、汀の右方深藍色を呈せる大氷洞の外邊に、一大海豹の横はれるを見るや、船から短艇に注意すると艇上の四人は坐氷の一角に纜を繋ぎ、一齊に「好敵御參なれ!」と馳せ向うた。
四人が手にせる四本の六尺棒は、幾たびか打下されたが、敵もさる者頻りに牙を怒らせて應戰する。
其開いた口は、宛も大蛇の紅舌を吐いたやうである。
やがて、遂に四方から包圍攻擊の末、滅多毆ちに打据ゑ、漸つとの事で敵を仕止めた。
格鬪正さに三十分間、戰士は何れも血を浴び汗に塗れた。
激戰後、直ちに四戰士は、萬歳を唱へつゝ直ちに、傾斜急なる、峻坂を攀ぢて其背後に入り、左方の堤上に向ふべく中腹に現はれ、一列縦隊を以て轉びつ起きつ益々前進して、程なく堤上に達したが、なほも四人は前進を讀けて、堤上奥深く進入した。
四人の影高き氷堤上に現はる
船上では四人の消息を待詫びて居ると、やがて、四十分後四人の影は高き氷堤上に現はれ、おし立てし赤旗の下に整列の上幽かに「萬歳!」を三唱し、八本の手は高く低く三たび動いた。
海豹蘇生して頭を擡ぐ
終つて、一行は歸路に就いたが、此時先きの海豹は、俄然蘇生し、ムクリと頭を擡げつゝ徐かに四圍を見廻して居たが、敵影無しと見て取るや、ノソリ〱と岸邊を指して匐ひ初めた。
甲板上からは、『ソラ海豹が生返つた!、アッ〱逃げて終ふぞ!』と口々に叫んで、騷ぎ廻つたが、歸路に就きつゝある戰士は、まだ急には現場へ歸着しない。
『無念だッ、殘念だッ』と地段太蹈んで徒らに口惜しがるのみで、何うすることも出來ぬ。
水底に沈みし海豹
其うち海豹は早や岸邊近くに匐ひ寄つて、今や將さに水中に入らんとする途端、村松隊員堪り兼ね、銃口を向けて一發射擊を試みたが、不幸にして命中せぬ。
すると海豹の方は益々驚いて歩を急がせ遂に水底深く姿を沒して終つた。
海豹は如何に陸上で負傷しても海水中に入ると、忽ち平癒するものである。
さて〱命冥加な奴だ。
午前九時二十分頃、四人を載せた短艇は歸船した。
武田部長は討査の狀況を詳細に隊長へ報告した。
龜裂散在して突進不可能 花守アイヌの龜裂陷落 名刺を氷底に埋め歸航
それは左の通りである。
『上陸には如何にも適當ではあるが、見亘す如く、小山に似たる氷峰の集合して居るのは、何十里といふ延長を有する大氷河の終端であるから、突進は殆ど不可能である。殊に兩岸は急傾斜の上に、龜裂四方に散在し、薄氷之を掩うて居て、一見平地の如く、眞に危險である。現に先陣に立つた花守隊員は、一歩を誤りて南より北に亘り、幾里とも判らぬ幅三尺程の龜裂中に陷落した。幸ひ土屋一等運轉士が助け上げたから命は無事であつたが、兎に角危險である。そこで、吾等は上陸を斷念し、隊長の名刺を氷底に埋めて歸航したのである』と述べた。
隊長始め一同は大に落膽した。
武田部長は一同を慰め、『併し此灣上の探檢は、決して徒勞ではなかつた。象牙の如き彼の氷柱の研究を遂げ來つたゞけでも、十分の價値はあつた』と説いて、頻りに氷界の莊嚴を稱へた。
『四人氷河』と命名 『開南灣』と命名
斯くて隊長は、其踏査したる大氷河に『四人氷河』と命名し、又此灣には、『開南灣』の名を命じた。
位置は西經百六十二度五十分南緯七十八度十七分である、命名終ると、船は再び灣外に出た。
上陸地點に關し、一同協議の上、突進隊だけは鯨灣に上陸し、船は沿岸隊を載せて、七世州の探檢に向ふことに決議し、午前十時針路を逆轉して西方に滊走を開始した。
午后に入るや、一天次第に搔き曇り、暗風益々寒威を帶び、雪片は霏々として甲板を打つ。
氷界無人の境に不思議の船影
此時針路二十哩の彼方に、一隻の船影を認めた。
船員は、折しも來合せた吉野隊員に。
『海賊船だ―』と告げたので、サア大變だ。
吉野隊員驚愕の餘り、船内を觸廻つたので、一同も眞逆とは思へど、ドヤ〱と甲板へ馳付けた。
やがて、進航するにつれ、一隻の帆船の氷海中に碇泊せるを確め得たが、果して何處の船なるやは、もとより不明である。
開南丸からは早速日章旗を檣頭高く揭揚すると、彼も亦た一旗を揭げたが、距離遠き爲めと、折しもの曇天とで、十分に其旗標を認めることが出來ぬ。
近づけば其れ諾威探檢船フラム號
斯くて船を進むるうち、彼我約五哩の距離に達した時、漸く旗標を明かにするを得た。
即ち旗は赤地に靑十字である。
是に於て其船は、諾威の南極探檢船フラム號なることを確知した。
程なく船は目指す鯨灣に入港したが、灣内は以前の『開南灣』とは違ひ結氷夥しくして深く突入することが出來ぬ。
鯨灣の野氷上に投錨
そこで、已むを得ず、灣口なる野氷の東隅西一哩半に、フラム號を隔て、氷中に船を突入れて碇泊した。
時に午后十時であつた。
灣内は一望廣濶
一望の氷堤は此處に灣入し居り、灣頭に當る氷堤の間は約十五哩もある如く目測せられ、灣内は一望廣濶として視界只渺茫たるを覺え、灣口を一直線に東西の氷堤を連絡せる堅氷は、坦として低く、滿目皚々たる上には、海豹、ペングイン鳥、點々として散在し、南極鷹、雪鳥、低く左右に飛翔して居る。
極鯨幾群となく現はる
又波靜かなる深碧の海上には、極鯨の幾群、此處彼處と泳ぎ廻り、舷邊近く現はれては、猛烈なる音響を發して例の潮柱を吹き立てる。
一時の雪模様も、やがて、暗雲の四散と共に陽光赫として輝き出でた。時刻は夜半に近きも、南極の太陽は終日終夜、惠みある光と熱とを地上に與へてくれるので、百般の行動は幸にして理想の如く進捗する。
隊長は船の碇泊と同時に、隊員全部に令して、陸上踏査の任に就かしめた。
總員は一時に勇躍し、準備を嚴重に整へ、船を下つて出發したのは午后十一時である。
船より眞直に氷堤まで約二哩の間は、廣漠たる一面の野氷で、其厚さ三尺乃至四尺、水面上には僅かに五六寸を現はして居る。
氷の流出季節?
一帶の平盤とて、行進には最も適當であるが、目下は野氷の流出季に近づきつゝありと見え、數條の龜裂は畔疇の如く四方に走り、若し南風一陣驀然として至れば、直ちに流出せんず形勢である。
目高の如き魚の樓息
又た其龜裂の間隙七八寸位の箇所には、深き海水の碧色を湛へ、目高に類する魚の樓息夥しきを見る。
兎に角、危險此上なく行進には多大の注意を要するので、一行は眞に薄氷を履むの心地である。
斯くて、一隊は稍や凍結氣味なる雪路に一歩々々ギュー〱と氣味惡しき音を立てつゝ眞一文字に前方氷堤にと向つたが、途中に於て二三の海豹を見た。
其海豹の斑紋ある漆の如き深黑色の皮膚の艶々しく且つ肥滿せるより察して、此邊海中に魚族の棲息の夥しきを卜するに足る。
而して其等の海豹は、北洋の産若くは從來捕獲したるものと、多少其種類を異にして居るらしく思はれた。
探検隊一行の服装 流汗淋漓として全身を濕ほす
一隊の服裝は、各々シャツ三枚、股引二枚、其上に隊服を着用し、防寒頭巾を被り、雪眼鏡に耳袋、手には手袋、足にはカンジキ付の絨靴を穿き、六尺杖を携へて居るのであるが、益々前進するうち、次第に照付く太陽の熱と雪の反射とで、少なからぬ高溫を感じ、流汗淋漓として全身を濕ほす、それ故外套着用者は、脱いでそれを背上に負ひ、喘ぎ〱進むのである。
又た雪盲病豫防の爲めの薄黑い眼鏡の玉は、皮膚より發する湯氣が、時々水蒸汽となつて附着するので、甚しき鬱陶しさを感ぜしめる。
と云つて外すこともならぬから、時々鏡面を拭うては、辛ふじて不快なる前進を續ける。
二百尺以上の氷の峭壁
やがて野氷上の行進約一時間の後、一隊は氷堤下に達した。仰ぎ見れば二百尺以上の氷の峭壁は、峨々として聳立し、紫靑の氣は焰の如く燃え立ちて慄然肌上に粟を生ぜしめる。
殊に其絶壁の面は、猛風の來る毎に缺落すると見えて、突角を成すあり、雪崩を示せるあり、危うく落下せんとする怪氷ありと見れば、磨立てし白堊の如き奇氷ありといふ有様で、野氷は絶えず落下し來る氷塊の爲めに破砕せられ、海水さへ見えつゝ、群氷重疊し、それが底部を洗ふ波濤の爲めに、ファ〱と緩漫なる上下動を起し乍ら、寂たる天地に、ギーッ〱と絹裂く如き奇音を發して居る。
極地ならでは見られぬ凄壯の光景
而して氷面と氷面との間隙よりは、時々海豹其頭部を現はし恐ろしき齒牙をむき出して深呼吸をなすなど、其等の光景は、極地ならでは到底見るべからざる凄壯の活畫である。
前項の如き光景であるから氷堤上に達せんには、其攀登の困難なるは勿論、既に堤下の野氷面徒渉の危險をも冒さねばならぬのである。
辛ふじて一大氷塊に這ひ上る
そこで、一隊は、三部に分れて進むことゝなり第一部は村松、吉野、花守、の三人組、分隊は先鋒となつて進み出した。稍や凍結して居る野氷上を手の六尺杖を力に、注意深く打渡り、辛ふじて一大氷塊に這ひ上り、溪間を飛越えて右曲左折し乍ら、次第〱に前進し、漸つと堤腹にまで達した。
すると前方には一大雪崩あつて、如何にも物凄き光景を呈して居る。
彌よ之れより作業の幕となるのであるが、此處は何分滑氷の傾斜面で、進むには何うしても其處に横はれる、深き龜裂の中間を過ぎらねばならぬ。
頭上を仰げば氷堤の一部將さに落下せんとす
頭上を仰ぐと、傾斜せる氷堤の一部は、將さに落下せんず勢を示して居り、其危險の狀は全く言語に絶して居る。
氷塊に壓せらるゝか深溪に陷るかの二途
即ち若し此の際一寸の注意を怠つたならば、氷塊に壓せられるか、若くは深溪に陷るかの二途、其一の運命に坐せねばならぬ。
命綱を曳き乍ら通む
併し此難關を通過せぬ以上、迚も前進の途がないので、もとより睹生決死の面々とて、各々大勇猛心を起して、手にスコープを振上げ〱、奮闘の限りを盡した。其作業の順序は、一人が先づスコープを以て雪を搔き除け、通路を開くと、後方に從ふ二人は、萬一を慮つて、先頭に立つ者の身を縛した命綱を曳き乍ら、守護しつゝ進むといふ風、斯くて高聲を發するさへ憚つて、所謂深淵に臨むが如く、薄氷を履むが如き心地を以て、交代で作業の任に就いた。
併し遅々たる作業も、歩一歩提上に近づき、間もなく平坦の氷面上に達して見返ると羊膓たる隘路は、雪中に蜿蜒として、開かれ、四顧すれば身は早や堤上の人である。
萬歳萬歳の連發
ホッと一ト息吐くと共に、滿身の流汗拭ひもあえず、三人各々双手を高くさし上げて。
『萬歳!』と大呼すると、第二、第三の分隊も脚下より『萬歳!』と和しつゝ續々堤上に辿り着いた。
時計を見ると丁度午后十二時であつた。
やがて一分の後は、翌十七日の午前零時である。
墨繪の如き開南丸とフラム號
氷堤の頂上に立つて、遙かに沖合を瞰下すと、碧波平らかにして流氷處々に白く點在し、灣内一面の野氷盡くる處開南丸、フラム號の二隻は、寂然として墨繪の如く浮んで居る開南丸附近の氷上には、黑き人影點々として右方左方に動き廻り、時々銃聲も聞えて來る。
之は船員連が長途の航海の勞を慰めんが爲め籠を出でたる小鳥の如く、野氷上を歩き廻つては、ペングイン鳥や海豹の類を狩獵して居るものと察した。
首を迴らして背後を見亙すと、一白無涯なる氷原は、茫漠として碧空と相連り幾多の秘密を其奧に藏せるかの如く想はしめる外、何一つの影も目に入らぬ。
殊に輝く太陽は白雪に映じて、一種莊嚴の感は、一隊の胸宇に深く〱泌み入つた。
無人の淸淨界を踏破せんとする鐡脚
先鋒隊は、武田、三井所、西川、山邊の第二分隊と合して、皚々たる無人の淸淨界を南進し初めた。
大和男兒の鐡脚は、今より思うが儘に此別乾坤を縦横に踏破することが出來ると思ふと、各員共に心躍り、痛快此上なしだ。
斯くて、進むことなく南進すること約一哩、其途上氷質の研究を試みた結果、兎も角、突進に適當の地點なるを認め得たので、一先づ歸船せんと踵を回らした。
西方に凸起する雪丘
折柄、平坦なる西方地平線に當り、岡陵の如く凸起する雪丘を望んだ。
『彼の雪丘は多分アムンドセン大佐の根據地であらう』などゝ取汰沙しつゝ、もと來し足跡を履んで以前の氷堤上に歸還した。
此時隊長は、防寒シヤツに毛皮のチヨツキを着けて氷堤上に來り、先づ一白無涯の乾坤に俯仰して非常に滿足らしき微笑を洩らしたが、南進から歸還した一隊を迎へて後徐ろに東方を指し乍ら。
適當なる登攀地點
『此處よりも更に適當なる登攀地點を發見したから、兎に角、一旦船へ引揚げ暫時休養の上午前九時頃から大活動を開始する事にしやう』と云ふ。
そこで一同は、峻坂を下り野氷を徒渉して歸船の途に就いた。
歸船して見ると甲板上には卓子の用意既に整へられ、入港祝のウヰスキー瓶は、一隊の勇士を待受顏に並んで居る。時正さに午前二時であつた。
午前九時より活動を開始する筈であつたが、夜を徹した疲勞の爲めに隊員の起出たのは午前十時頃であつた。
甲板に出て見ると一面の野氷は何時しか風波の爲めに幾分の流出を示し、爲めに船は餘程深く進入して錨を野氷上に投げて碇泊中である。
前日來野氷上に曳出された三十頭の輓犬は桝の如き住家から廣い自由の氷上に出たので久々で樺太の故郷へ歸省した心地で、嬉々として右に驅け廻り左に飛び狂つてさも愉快に堪へぬといふ有様。
絶えず雪を嘗めては鼻を鳴らして居る。
船員連は、今朝も亦た思ひ〱に狩獵に從うて居る。
前日來の獲物の大海豹七頭、アデレー、ペングイン鳥數十羽に上り、何れも意外の大獵に、益々調子付いて居る。
やがて、隊員一同は、船員の手傅を受けて、船から氷上へ大小四十個の荷物を卸した。
之れは陸上隊員即ち、隊長と武田、三井所、兩部長と山邊、花守、兩アイヌの五人の突進隊員の外氷堤上根據地觀測掛員吉野、村松、兩員以上都合七名分の被服及び糧食である。
荷物の犬橇運搬
氷上に卸された是等の貨物は山邊、花守の兩人にて、氷堤下まで犬橇及び手橇で運搬されるのである。
この荷卸しの事業開始と同時に、隊長並に武田部長は花守の馭する十五頭立の犬橇に搭乘し、道路開鑿豫定地點なる氷堤下に到り、實地踏査の上、荷物置場等の指定をなすべく赴くと、續いて道路掛たる吉野、村松の兩員は、山邊の馭する十三頭立の犬橇に搭乘し、雪搔用のスコツプや命索等の準備抜かり無く出發する。
「トウ〱カイ〱」と、アイヌ語の犬追ふ聲も勇ましく、兩橇隊は約三十分の後氷堤下に到達した。
一同は橇を下り、甲乙の二隊に分れ、甲隊は先づ坂路を攀ぢて堤上に達し龜裂を避けつゝ四十分間ばかり東方に進む。
一方指揮役の隊長は乙隊に合すべく提下に來り昨日選定の開鑿地點を指示する。
見ると險しい絶壁ではあるが、一丈許り下つた處からは雪崩になつて居るので、道路開鑿上には比較的容易の箇所である。
殊に其下の野氷は極めて厚く鎖して居るので、少々迂廻ながら工事は案外易々たるものらしく思はれる。
氷提道路の開鑿工事
開鑿地點の確定と共に大體の計畫をも立て、乙隊は先づ堤上の嶮崕より六尺許り後方から工事に取掛ることゝし、例の順序で雪を搔き除け氷を打碎き、掘下げ方に全力を盡す。
此隊はつまり上方から下方に向つて開鑿するのである。
一方、甲隊は提下を起點として乙隊とは反對に下方から次第〱に上方に開鑿しつゝ進むので、隊長も其隊伍の一人で、武田部長、西川隊員等を助手として、例の順序で交代作業に取掛る。
垂下りたる氷角を打落す者、提路の缺隙を雪塊で埋める者、或は斷崖を削る者、スコープで雪を搔く者等、各々命索を取交はしつゝ、奮闘數時間に亘つた後漸くにして兩隊半途に相會し、こゝに三尺幅の崎嶇たる坂路は氷堤の上下に通ぜられた。
大龜裂に架する手橇橋
又た野氷の間なる大龜裂には、手橇二臺を架けて橋となし、通路だけは、斯くて一ト通りは出來上つた。時に午後十時。
燒くが如き太陽の光は過激なる勞働に從うた一同の眞向から照り付け寒天乍らも大に時ならぬ苦熱を感ぜしめた。
黑きこと漆の如き容貌
殊に一同の顏色は雪燒けの爲めに、黑きこと漆の如く、目齒のみ白く見ゆる樣は、亞非利加土人其まゝなので。
『之れならば、雪中で迷兒になつても、大丈夫だ』と一同互に打笑ふ。
道路開鑿作業の竣成と同時に船から卸した荷物全部は二臺の犬橇で既に氷堤下の荷物置場に運び盡されてあつたので。
殘務は明日の事にしやうといふので、一同は船に歸り、翌朝まで休養することにした。
船長のフラム號訪問
今朝、野村船長は、隊長の命を帶び、三宅通譯を伴うて、氷上からフラム號を訪問し、正午頃歸船した。
同船は以前北極探檢に令名を博せるナンセン博士の用船であつて、建造費十九萬圓餘に上り、氷海航行には理想的の船である。
總噸數三百五十五噸、二十五馬力の石油汽罐付帆船で内部の構造は頗る完備して居る。
なほ其堅牢は今日までの經驗に徴するも明白である。
船長ニイルソン氏(三十七)歳以下船員十一名、何れも豪傑揃ひで、氣焰却々高い。
昨年十月五日南米アルゼンチン國ブエノス、アイレス港を出帆し、此地へは十日前に到着し、今は此灣口に碇泊して、只管アムンドセン大佐一行の歸來を待ちつゝあるのである。
尙ほア大佐一行の突進隊の冬營地は、フラム號の所在地から約五哩の南方氷原上にあるといふことだ。
稀有の好晴續き
本年の氣候は昨年に比して暖かく、殊に此二三日は、此地方稀有の好晴續きであるとは、フラム號船員の語つた處であつた。
十八日午前四時、前日來の疲勞で、隊員一同グッスリ寢込んで居る最中。
荷物を置きて野氷流失せんとす
『大變だッ〱、荷物が氷と一所に流れて終ふぞッ』といふ聲が、次第に船房へ近づいて來る。
一同は我先きにと枕を蹴つて甲板へ出て見ると、大切な荷物の置かれてある箇所の野氷は、今しも一盤の浮氷となつて、ユラ〱と波に浮み出さうとして居る。
猛烈なる雪塵の飛揚
今朝天候は相變らず快晴であるが、南風頗る烈しく氷堤一帶から吹立つ雪塵は、輝く太陽に映じて物凄く、船の帆檣はピュー〱と唸りを立てゝ寒さは身を切らむばかりである。
突進隊用貨物は、昨日犬橇の都合上成るべく輕減し、陸揚げはしたものゝ當座不用の分は淘汰して船から二十間許りの距離なる氷上に積置いたのであつたが、何分時期が時期とて、強風のまに〱野氷の流出甚だしく、随つて貨物の在る箇所も既に浮び出て見る〱奧の氷を離れ、一寸二寸と、次第に距離を增して來る。
危機一髪の氷上貨物取除作業
そこで隊員連は、當直船員の加勢を受け、敏捷なる活動の末漸く全部をば危ふき氷上から船内へ收容したが、此活動の終るや否や、貨物を取除けられて輕くなつた氷盤は、忽然として速力を迅め、見守るうちに沖へ〱と流れ去つた。
其間眞に危機一髪であつた。
野氷の流出と共に、船は又更に前進して、奧の氷端にと着く。
寒風を冐してペングイン鳥の捕獲に向ふ
時に大なる二羽のペングイン鳥は突然氷上に立現はれ、例の鷹揚なる羽叩きをなしつゝ、いと睦まじげに悠歩を運ぶ。
之を發見した、吉野、渡邊、安田、柴田、の四勇士は、雄心勃々禁ずる能はず、船を下ると直ぐ、吹き荒ぶ寒風を冐しつゝ捕獲に向うた。
斯くて現場に至るや、四勇士は二手に分れ一羽に二人づゝの手配で、難なく生擒の目的を達し、早々繩にて縛し、それを氷上に立てられたる棒杭に括り付け、凱歌を奏して歸船した。
見ると其二羽は、初見參の帝王ペングイン鳥で、身長三尺五寸、重量六貫餘もあらうといふ逸物である。
力量の絶大驚くべく、麻繩にて八重十文字に縛され乍らも、尖つた嘴にて四邊を喙き廻る其が爲め一同は、萬一眼でも突かれては一大事と迂潤に寄付かず、何れも遠卷きでワイ〱と囃して居た。田泉技師は早速活動寫眞に撮影したが、活動寫眞助手兼務の池田農學士は、舷頭の鐵綱から氷上に飛下りやうとして誤つて身を滑らし、強か背骨を撲付けて氣絶した。
『池田氏が氣絶したッ』といふ聲に、一同はペングイン鳥どころでないから、早速現場に集り、大勢で船内へ擔ぎ込んで、水よ藥よと立騷いだが、幸にして息吹き返したものゝ一時は却々の騷ぎであつた。
フラム號士官の開南丸訪問 此の如き船にては来り得ず
其處へ、フラム號の士官二名が、我開南丸へ來訪したので、早速船内へ伴ひ、茶菓を供して種々談話を交へ、又た請ひに應じて船内を一順案内して見せた處、彼等は、『恁んな船では我等は到底此處までは扨置き、途中までも來ることが出來ぬ』と云つて、頗る驚愕の色を示した。
烈風は却々吹き休まないが大切の場合とあつて、隊長始め隊員一同は絶大の勇氣を鼓して、昨日の引續き事業たる、貨物の運搬に死力を盡した。
今日は前日來の經驗上、絨靴の餘りに重くして、到底勞働用として不適當なのを認め、總員藁靴を穿用することとし、又た眼鏡も黑絽の掩布を用ゐることとした。
一行は二臺の犬橇に分乘し、野氷を走つて荷物置場に來て見ると、無念!殘念!折角昨日苦心して開鑿した新道路も、粉々たる飛雪の爲めに諸所埋沒し、交通はここに遮斷されて居る。
そこで其箇所を再び開通せねばならぬので、隊長並に武田部長が其任に當ることゝし、他は荷物の運搬方となつて、之れより氷堤を上下する困難なる役割に當つた。
猛烈益々威力を增し來る南風を眞正面に受けて、運搬の任に當つた各員は、エッサ〱と峻坂を攀ぢ登るのであるが、其困難は全く名狀すべからざるものである。
六尺棒を杖として登攀す
只身體一つでさへ、一歩に一喘といふ稀有の峻路である上に、各員は背上に重い貨物をば、一々綱にて負ひ乍ら、六尺棒を杖とし、先づ富士の強力といふ姿で辿り登るのであるから、何れも臍の緒切つて以來の難行苦役であつたに相違ない。
殊に烈風に交つて來る吹雪は、喘いで開く口に當つて今にも息の根が止りさう、まだその上に足場が惡い爲めに、最も險峻の箇所では、五尺の身體も吹飛ばされんと危む位で、到底二本足での歩行が出來ぬ。
その様な場合には、何れも双手を突いて馬となり、僅かに之に結付けたる鐡のカンヂキを力として匍ひ上るのである。
其困難の狀は、迚も形容の出來る話ではない。
蟻の如く氷堤を上下す
斯くて、十人の輸送隊は蟻の如く氷堤を行きつ戻りつして、必死と立働く。
又た一方道路方は、絶間なく降り積む雪を搔き分けて、間斷なくスコープを動かして居る。
斯くの如く總員が絶大の奮闘を繼續した結果早くも午後二時には、貨物全部を無事に堤上に運搬し盡し、一定の場所に整然と山積さるゝに至つた。
先づ之にて最難の事業たる氷堤上、荷物運搬の一條は、辛ふじて一段落を告げたので、氷堤を下つて船へと向ふ。
踏ゆく野氷は數刻前とは全く其形態を變じ強風、陣一陣、吹き來る毎に、野氷の一部は其結氷の薄弱なる部分から裂けて氷盤となり、次第〱に流出する。我が開南丸も流氷の多き爲めに、危險を避けて稍や沖に出で、フラム號も亦た東方に徐航しつゝある。
浮模様の如く見ゆる氷片の流出光景
低く平らかなる氷片は、波立つ碧海に浮模様の如く、沖へ〱と連つて流出し居る。
何氣なく見亘した流氷群の中の一片、氷岸から約二十間を離れたる、一氷片の上に取入れ、殘りの不用貨物が見える。
荷物の一部見るみる流失
『アレゝ荷物が・・・・』と一同指ざして騷ぎ廻つたが、さて救助の途がない、流れ出して、段々遠ざかるのを、見す〱抛棄するの已むを得ざる無念さ!。
其貨物は手橇三台、罐詰一箱、大工道具の一部等であつたが、やがて、遠き沖へ一點の黑子となつて流去つて終つた。
此灣へ到着した當日には、投錨地點から氷堤まで三哩以上もあつた野氷が、今は早や其過半も流出し去り、殘る部分も次第に流出しやうとして居る。
其が爲め見亘す海面は非常な浮氷の數である。
併し幸にも一方に海路が開けて居るから、一同は最端の氷角に立つて大聲を揃へつゝ。
『開南丸ーッ〱』と叫んだ、が雪針を含んだ南風強く吹付けるので、應答の聲は聞へて居るが、短艇を浮べることの危險を慮つてか、容易に迎へに來る様子がない。
勞働中は流汗淋漓として居たが、少時でも休息すると其汗が忽ちに凍つて終ふ。
防寒服上の雪片銀の鎧の如し
防寒服上には雪片と流汗とが、共に凍結して、何れも銀の鎧を着用して居るやうで、其寒さつたら無い。
で、何れも端艇待つ間を足踏みして僅かに寒威に抵抗して居る始末である。
其うちに、現在佇立して居る氷も、忽焉として流出しやうとするので、驚くまいことか、一同は「大變々々」を連呼して、辛ふじて他の氷上に退却したが、其間實に危機一髪、今一秒の相違で一同は飛んだ俊寛の二代目を演じる處であつた。
足元の氷頻に流れ出す
『實に危險だなア、此調子では寸時も油斷が出來ないぞッ』などゝ互に警戒して居ると、果して再び足許の氷が、グラ〱と動搖を起して、流れ出さうとする。
『ソラ又流れ出すぞッ』と叫んで『迯げろ〱で』退却しやうとすると前方に見ゆる裂け目は早や八寸許も擴がり、海水も見へて、波に搖られて動いて居る。
一同は驅け出したが、見る〱其裂け目の幅が三尺餘に達し、瞬一瞬海水が幅廣く現はれて來る。氷は早や流れて居るのだ。
一同は身を躍らせて他氷に移つた。途端氷と氷との距離は早や六七尺に達し、間一髪の危ふき場合であつた。
九死に一生を得たる危険
見るとその氷は、東端より流れ初めて、一同の他氷に移つた時は、僅かに西部に一角だけ連絡を保つて居た刹那であつたので、全く九死に一生を拾ひ得た譯なのであつた。
すると又他の一方に、約三十間四方の、一氷盤が流出さうとして居る。
山邊アイヌと輓犬三十頭を乗せし氷流出せんとす
其氷上には、山邊アイヌと三十頭の輓犬とが載つて居て、山邊は今「如何にして犬群と共に無事他氷に移つたものであらうか」と、餘りの急場に、救助を求むる聲も得立てず、心は周章狼狽の極に達し乍ら、右往左往して居る最中なので、之を逸早く認めた吉野隊員は、咄嗟に其氷盤上に飛移るや否、犬群を六尺棒で無闇矢鱈に安全なる方面へ追立てた。
山邊も今少しで其六尺棒のお見舞を受ける處であつた。
併し吉野隊員の此過激なる方法は最も機宜に適したるもので、幸にも山邊アイヌと犬群との生命を全ふせしめることが能きた。
件の氷盤は之も前同様、最後に吉野隊員が一躍して他氷に移ると殆ど同時に、急迅なる速力を以て沖合へ流れ出した。
最初から最後まで二分間
此大活劇の最初から最後までは、約二分間であつた。
是に於て一同は益々野氷の危險なるを知つて、佇立せる箇所から約二丁餘なる、荷物置場へと退却した。
吉野隊員は早速有合ふ杭を打込み、菰蓆を半月形に張りて雪にて埋め、其前面に箱や蓆の類を積み北の寒地で旅人が、吹雪を避ける專賣特許の「雪除小屋」といふのを修らへた。
氷塊の缺墜する大音響
一同は兎も角其中にもぐり込んで、迎への船の來る迄を待合すことにしたが、雪こそ直接に降り掛らね、寒氣は依然として激烈に身に泌み渡るのみならず背後の氷堤は、時々百雷の一時に落つるが如き大音響を立てる。
之は云ふまでもなく氷塊が缺墜するのであるが、其度毎に雪除小屋の一同は今にも頭上へ大氷塊が落下して、一卜壓しに潰されるのではあるまいかと、坐ろに凄愴の感を催ふしつゝ顫えて居た。
斯くてあるうち、一時間の後開南丸は、全力を以て汽走しつゝ、最端の氷岸へと横付けになつた。
雪除小屋の連中は、「お待兼」とばかり、舷梯を攀ぢて漸く入船したが、甲板へ出て時計を見ると午後正四時であつた。
今日は上來の作業の外に、氷堤上の天幕建設に着手の豫定であつたが、風力猛烈加ふるに海潮急迅の爲めに今日の作業は之で切上げとし、何れも船内で休養することにした。只だ山邊、花守、兩アイヌ丈けは、輓犬保護といふ役目があるので、荷物置場附近で露營に決したから、船は直ちに流氷の衝突を避けつゝ再度沖合へ出たが、午後十一時、潮流の工合で、氷堤に近づいて徐航した。
濶然たる鏡面巍峨たる白壁を宿す
翌くれば十九日、灣内を見亘すと、野氷は始ど全く流出し去つて、深碧の海水は氷堤の直下にまで達し、巍峨たる白壁を濶然たる一大鏡面に映して、繪の如き倒影を描いて居る。
小流氷は處々に點々浮遊するも、其數極めて稀少である。
魚鱗の如き卷層雲
空を仰げば卷層雲は魚鱗の如く、又昨日の烈風も何時もか歇んで、上陸には申分の無い誂向の好晴である。
陸上突進隊五名、根據地觀測掛員二名、都合七名の一隊は、愈よ今日を以て開南丸と暫時の訣別を告げ、氷雪界の探檢に就くのであるから、朝來何れも其準備に忙殺せられて居る。
やがて、準備の終つた時、隊員船員一同は、船艙の蓋板の上にて、心ばかりの祝盃を擧げた。
又隊長と船長とは、今後の打合せをした。
其結果、開南丸は今日より上記の七名を上陸せしめると直ぐ、エドワード七世洲に向つて解纜し、沿岸隊員の上陸探檢を終へて後、近海の測量を遂げ、豫定の日子を費したる上、再び此鯨灣に引返すことに決した。
突進隊と沿革との袂別
斯くて午前七時、船は氷堤近く進入した。
七名は勇んで船を辭したが、分袂に臨み各員と握手を交へつ。
『しつかり賴むぞッ』
『ウム大丈夫!』などの勇ましき會話も交換された。
野氷の流出と同時に、前日來、苦心開鑿したる道路も、幾分は缺落して居るので、更に上陸地點搜索の必要を生じた。
そこで上陸隊員の出發に先だち、短艇の卸されると共に村松、西川、高川、柴田の四名は、下調査の爲めに氷堤に向うた。
櫂は時々氷片に當つて水中に入らず、舳に立てる西川隊員は、フックにて氷塊を推分け辛ふじて岸に着いた。
昨日來吹き荒んだ強烈なる南風は、啻に一帶の野氷を吹き裂いて沖へ流し去つたのみならず、氷堤下の大龜裂の一岸から全部を流出せしめたのである。
爲めに折角開鑿したる道路の一部は氷山となつて、堤下に漂ひ、其頂上には足跡猶ほ消えやらず、鮮やかに印されて居るといふ始末、桑田碧海の譬喩も道理や、形勢全く一變して、昨日の名殘としては僅に二臺の橇と藁蒲團とを材料として、臨時に架したる橋の、空しく落ちんとせるを見るのみである。
此橋から約三十間の東方に、稍や低い岸が見える。
早々之に向ふと、宛ど胸高位であるから、漸く氷上に立つことを得た。
そこで、短艇は西川、村松、兩隊員を氷上に殘し、いよ〱他の上陸隊員を上陸せしむべく船へと引返した。
其間に西川隊員は氷岸に上陸足場を作り、又た村松隊員は、上陸地點から氷堤道路までの順路を探査しつゝ進む。
昨日の堅氷今日の龜裂
傾斜の稍ゝ緩やかなる處を辿つて、以前開鑿したる道路の中途に達したので、村松隊員は堤腹を攀ぢて、荷物置場に至り、露營中の山邊、花守兩アイヌを起さんものと堤上に登り、約十歩を進むと、昨日までは平氣で歩行しつゝあつた一尺許の處は雪橋落ちて深き龜裂を表はし、試みに其内部を窺へば、紫色を帶びたる龜裂特有の靑氣は焰の如く立罩めて物凄く、猶ほ處々に雪棚を架けて、底は知られぬが其危險名狀すべからざるものである。
仍つて早々竹棒を樹てゝ危險の目標となし。
アイヌ式の睡眠法
更に進んで荷物置場に至つた。見ると、兩アイヌは、アイヌ式に四本の竹を組合せ、南方に麻布を張つて蓆を並べ、其中で寢袋に纒まりつゝ、夢路安らけく猶ほ睡眠中である。
村松隊員は早々兩人を呼覺して作業に從事せしめた。
聞けば前航海の時の唯一生存犬たる「マル」の行衞が、昨夜不明となつたので、花守アイヌは八方搜索したが、遂に發見することが出來なかつたさうである。
『多分龜裂へ陷沒して、非業の最後を遂げたのだらう』と、悄然として語る。
上陸隊と母船との聯絡は斷たる
船と氷岸との間では、短艇が數回の往復をして、隊長以下豫定員一同は上陸し、寢具、學術器械等全部の運搬を了し、いよ〱母船と上陸隊との聯絡は斷たれやうとした。
隊長以下七名、輓犬三十頭は、晴れ渡る日光を浴びて氷堤上に並立し、開南丸の甲板の一同と相和して元氣なる「萬歳!」を叫び交はした。
時に午前八時であつた。
やがて、開南丸は、悠々灣岸を離れ、灣口を出て、一條の黑烟、一聲の汽笛を殘して遂に其姿は見えずなつた。
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