活動白瀬隊を知らせたい

白瀬隊を知らせたい[1]

第1回「語り継げ 白瀬の偉業 夢・ロマン」

 表題は私共が進めているプロジェクトのキャッチフレーズです。

「白瀬矗の偉業」って何? と、訊ねられる事がしばしばありました。その驚くべき業績に比して、残念ながら知名度が芳しくないのは認めざるを得ません。

 本コラム「白瀬隊を知らせたい!!」を開始するにあたって、「偉業」の内容をお知らせしたいと思います。

 この世界的な人物の偉業について色々な角度からあたると枚挙のいとまがありません。曰く、「未知の世界への探検を志し、日本南極探検隊を組織して南極大陸の一角を『大和雪原(やまとゆきはら)』と命名、「白色人種以外では初めての快挙」、「後世の造船大国・捕鯨大国日本を暗示させる、僅か204トンの小さな船で氷海を往復した開南丸船長や船員達の航海術」、・・・。

 この「白瀬日本南極探検隊」の成功が、1957~58年にかけて世界が共同して観測した第3回国際極年(国際地球観測年/IGYと呼称)に際して、国際的な観測網の枠組みに日本南極地域観測隊(Japanese Antarctic Research Expedition/JAREと呼称)が参加する途を開いた。また1959年12月1日にアメリカ合衆国、ソビエト連邦など12カ国によって署名された「南極条約」の原署名国(2010年の署名国は48カ国)に日本も名前を連ねている。日本南極地域観測隊は,オーロラ・隕石・雪氷学・生物学など、南極ならではの研究でめざましい研究成果を出してきた。また1984年に発見されたオゾンホールも、昭和基地における観測が世界に先駆けて発表されている。

 この前後の事情をもう少し詳しく述べたい(知らせたい)。

 日本は、IGYに参加の意志を表明したが、敗戦後間もない日本は「日本にはその資格はない」などと四面楚歌状態であった。これに対して、日本側は「白瀬日本南極探検隊」の実績を挙げて反論。この経緯に関しては村山雅美氏が「地の果てに挑む」(東京新聞出版局、2005年)で詳述している。

 それによると、

 『1955年9月、ブリュッセルで国際地球観測年(IGY)特別委員会の第二回南極委員会が開かれた。日本からは永田武東大教授(のちの第一次日本南極地域観測隊長)らが出席、白瀬矗中尉による南極探検など過去の実績を説明し、南極観測参加の意志を表明した。

 しかし、太平洋戦争の遺恨はまだまだ根強く、各国の反応は冷淡だった。参加に反対する意見が相次ぎ、「日本はまだ国際社会に復帰する資格はない」などと厳しい発言も出た。

 会議最終日、日本の参加の是非が再び議題に上った。相変わらず強い反対意見が出たが、南極に領有権を主張していなかったアメリカとソビエト連邦(当時)が賛同。ようやく賛成を得て日本の参加が承認されたのである。』

 かくして、日本南極地域観測隊の活動拠点である「昭和基地」が、1957年1月29日に東南極の一角に創設された。

 ちなみに、第2次世界大戦の枢軸国(日本、ドイツ、イタリー)のドイツは1979年に、イタリーは1981年に南極条約締約国入りしている。


▼ 白瀬氷河(南緯70-71度、東経38度30-40分)

 昭和基地南方のリュツオ・ホルム湾奥にそそぐ、最大幅16キロメートルに及ぶ大規模な氷河,この氷河の流速は南極ではトップクラスの早さである。1961年2月に命名された。昭和基地開設の4年後で、「白瀬の偉業」が正当に評価されていると思いたい。

白瀬氷河上空に浮かぶオリオン座とオーロラ(井上正鉄撮影:1986年9月6日)

筆者

井上 正鉄

白瀬日本南極探検隊100周年記念プロジェクト実行委員会 委員長
南極OB会秋田支部長
秋田大学教授

コメント

PAGE TOP