南極記デジタル書籍紹介

南極記:第八章 濠洲シドニーの露營生活(原文)

 南極洲の山姿陸影を認めながら群氷の爲めに前進するを得ず、恨を呑んで空しく濠洲シドニー港へ引還して來た開南丸は、明治四十四年五月一日無事同港へ投錨はしたが、困つた事には、此地は例の排日思想の盛んなる場所である。

 同地の官民は種々猜疑の眼を以て我が探檢隊を眺め始めた。

 殊に同市のサン新聞の如きは我南極探檢隊一行を誤解し『隊長以下隊員一同は何れも豫備軍人にて、名を南極探檢に籍るも實は此の地に何等かの野心を有する軍事的日探である。

 宜しく上陸を拒絶して、萬一の危險を保障すべきだ』などゝ途方も無い論説を掲げたのである。

 すると他の新聞紙も之に雷同し、種々誤解を含める漫畫などを掲載し始めた。

 同地の陸軍は神經過敏にも、要塞の警戒を一層嚴重にすべく哨兵を增加するなどの事も演ぜられたのである。

 併し本來誤解であるから、同地駐劄の齊藤總領事を始め、領事舘員、及び日本人會員諸士の斡旋により、同地官憲との意志こゝに疏通し、漸く八日に至り、濠洲聯邦政府から左の如き通牒を接受することが出來たのである。

 濠洲政府は、今回當港に來着せられたる日本南極探檢隊の上陸に關し、別に何等の制限を附せず、且開南丸在港中は公船と看做し、定規の課税を爲さず。

 (寫)斯くて開南丸は、入港後一週日目を以て同港内バースレー灣外に碇泊することゝなり、隊員は灣上の一地劃に露營小舎を建設して漸く陸上起臥の自由を得ることゝなつたのである。

 我隊員の露營小舎造營地は、同市の親日派紳士ヂエー・ホーン氏が、義侠的に無代貸與せられた同氏所有の林地であるが、今其地理を説明すると、此シドニー埠頭サーキュラーキーから約四哩の南方に位する半島は之を總稱してボウクラス區と云ふて居る。

 其の南端は對岸の北岬に對して南岬と呼び、北岬と共に港口を阨して、宛然一大防波堤の如き觀を呈して居る。

 外海岸一帶は懸崖絶壁で高さ數十丈に達し、其頂きには、砲臺あり、兵舎あり、探海燈燈臺、信號所、無線電信局等の設備もあつて、同地樞要の要塞地帶である。

 其の内海、即ちポート・ヂャクソンに於て、南岬に近き一小灣を、ワツトソン灣と稱し、其陸上にはタウン・ホール、小學校、教會堂、公園等あつて、街衢稍や整然として居る。

 此處から市の電車、灣又灣の小蒸汽艇と相通じて交通の便頗る宜しきを得て居る。

 而して、之より北方に當れる灌木の生茂る間をば、内海岸に沿うて約十町許も行くと深い入江に架けられたる雅致ある白塗の釣橋がある。

 之が即ちバースレー灣の釣橋で、其彼岸が即ちバースレー灣である。

 此灣内小蒸汽艇の棧橋から、眞直にバースレー・ロードに從ひ、左右十數軒の宏壯なる邸宅を見つゝ約七町餘進むと、其處には右側の樹林の間から、日章旗の高く翻へつて居るのを望見することが出來るのである。

 是が即ち我隊員の露營小舎にて其周圍には、同地の名産たる、ガン、ハニサカ樫、松等の老木欝葱として繁茂し、綠陰風を送つて極めて閑靜である。

 又た後方の臺地に立つと、眼下には碧海を望み、背後には邱壑を仰ぎ、海を隔てゝ遠くノース・ハーバー・マンレー等の地點を雲烟摸糊の間に眺め得られて、全く一幅の活畫を展したかの如くである。

 此露營小舎は、前年芝浦で種々研究の上、輕便堅牢を旨として造られた木造平屋建の切崩したもので、今此地で之を組立てたのである。

 而して全く小舎の建上つたのは、五月十六日であつた。

 此小舎は、桁行が五間半、梁間が二間半、都合十三坪七合五勺の營舎である。

 其組付は、頗る嚴重になし、一々鐵材にて締付け、屋根は取外しに都合よきやう板戸を以て巧みに張られ、内側から掛金で母屋に固着せしめてある。

 而して降雨の際は帆布を張詰めて雨漏を防ぐことゝした。

 又た周壁間仕切等も板戸を以て建込み、尙ほ窓としては六尺毎に一平方尺位の厚き硝子板を張つたので、室内は十分に明るい。

 間取りの具合は、床は全部板張とし、夜は藁蒲團と毛布四枚とで、暖かき夢を包んだ。

 建築上少しの裝飾もないが、風に倒れるやうな粗造のものではないから、久しく開南丸に在つて、棚の如き寢室に起臥したことを思へば、此小舎は隊員に取つては、金殿でもあり、又た玉楼とも云はねばならぬ。

 又た便所は別個に建設し、又別に天幕三個を張つて、食糧器具一切を格納し、其一つは浴場に充てた。

 尙ほ家屋の周圍には、深き溝を穿つて水利に便し、後方から來る雨水の流出を計り、爲めに林中の濕地も乾燥を保つことが出來た。

 又其外緣には、近傍から灌木、テーツリー(杉に類似して枝葉の一層柔軟なるもの)等を移栽して生垣となし、正面及び側面には風雅なる枝折扉を結び、庭内珍木奇草の間に怪石を散在せしめ、雅致ある石燈籠は、坐ろに故國を偲ぶに足る唯一の材料であつた。

 此瀟洒たる露營小舎は却つて外人の眼に珍らしく映ずると見えて、敷地の所有者ホーン氏を始め、幾多の同情家に滿足の感を與へたのである。

 露營小舎は此の如くにして出來上つたが、一方には種々協議の結果、野村船長、多田書記長の二人が、一旦事情報告の爲め本國に歸還する事と爲つた。

 其出發したのは五月十七日である。

 佗しき露營小舎生活に在つて、各員が唯一の慰樂は食事であるが、萬事儉約を主とせざるを得ざる現在の境遇では、決して贅澤なる食事を許さない。

 先づ米は船艙内に貯藏せらるゝこと久しきに亘つた爲め、一種の異臭を放つて居る物、鑵詰類は多く變味して居る物である。

 此米と此鑵詰とが常食であるが、其外には僅に少しばかりの野菜を買つて來て煮る位のものである。

 併し隊員は、これに不平は云はなかつた。

 母國に於ける我後援會の惨憺たる苦心を思ひ、又た極地に於ける冬營の勞苦を思へば此米此鑵詰も誠に感謝せねばならないのである。

 即ちかゝる生活ではあるが、總員の元氣は却々旺盛で血色も次第に佳良となり、肉も肥つて來て居る。

 これと云ふも再擧てふ前途の希望が胸宇に充ち滿ちて居るからである。

 麥飯の握に梅干一箇で、征戰の野に起臥した日本軍人の兄弟であるを思ふからである。

 尙ほ此休養期を利用して、體育の鍛錬を行ふ必要があると云ふので風の晨、雨の日も、勉めて舎外に動作し、市人の誤解を招かぬ範圍に於て、山野を跋渉し、海岸を逍遙し、或は山に入つては枯木を伐採して薪料となし、海に出でては釣綸を垂れて鮮魚を味ふ等、頗る體育的原始時代的の生活を送つた。

 随つて被服の如きも、外出用の他は、常に弊衣を纏ひ、能ふ丈け被服費の支出を節約することにした。

 露營小舎生活も、日數を經るにつれ、市人も我眞意を諒し大に同情を表し。

 時々種々の贈品を齎らして慰問してくれた。

 取わけ隣家等とは、常に相往來して幾多の厚意に浴した。

 又た毎週土、日雨曜の午後などには、來訪者頗る多く、各員其應接に遑なきばかりであつた。

 茲に一言すべきは、第一次計畫に於ては極の中心に達する事を目標として居たが第二次計畫の際には既にスコット、アムンドセン等が上陸して居るので、到底是等と極の中心を競ふの不可能なるを知り、出來得る丈學術的の探檢を行ふに決した事である。

 後援會では此事に就いての希望を探檢隊に通知して遣ると、同隊では西經百六十度より百七十度南緯七十八度半の附近へ上陸して東南に向ひ探檢を行ふべき事を定め、又沿岸隊を組織してエドワード七世州に上陸せしめ、能ふべき丈の探檢を行ふべき事及更に開南丸を以て出來得べき丈東方の氷海を探檢すべき事等を定めた。

 幸にしてシドニーには嘗てシャックルトン一行に加つて南磁極を探檢した同大學教授デビッド博士等が居たので武田學術部長等は同氏に就いて少なからず實驗談を聽いて益する所があつた。

 船員の方では又此期間に於て開南丸の修繕を行つた。

 丹野一等運轉士はジブリー船渠に交渉して各種の修繕を施した。

 次に露營小舎生活の二十四時間を記述して見ると、先づ午前六時三十分、當番の吹き鳴らす笛聲に、一同は起床するのである。

 各自毛布を疊み、便宜戸を外して、直に室の内外を掃除し、同七時に至ると、各々水道の淨水に身を淸め、衣を拂うて後應接室に奉安しある御眞影に對して最敬禮を行ひ、終つて隊員及び隊員間の挨拶を交換し、それより三十分間は思ひ〱に朝餐前の行事を執る。

 七時三十分に至るや朝餐の卓子は整へられ總員は酸ぱい味噌汁と香の物とで箸を執る。

 それが終ると八時から十二時半までが學課時間で此時間内に探檢に必要なる天文地理等の書を讀み或は突進準備の講究其他の雑業を執る。

 午後一時例の變味せる鑵詰で晝餐を終ると二時より五時までが、前述せる遠足等の專ら體育を主とする課業に入るのであるが、やがて五時三十分、一汁一菜の晩餐を終ると、それより就寢までは自由の時間で、雑談する者、讀書する者思ひ〱に九時三十分の就寢時刻までを費やすのである。

 尙ほ毎土曜は被服の洗濯をする日で、此日は淸潔檢査を行ひ互に衛生上の注意をする。

 日曜は休養日として、終日各員の自由に任せ、入浴は毎週水土の二回の定めである。

 斯くて隊員一同は毎日上述の如き日課を繰返し、船員等も船中に起臥して之に劣らざる日課を繰返しつゝ、一日千秋の思を爲して再擧出帆の日の到着を待つて居たが、光陰は誠に矢よりも速く十月十八日には本國に歸還中なりし野村船長は再擧用の糧食船具其他の準備品を携へて歸還し來り、十一月十六日には熊野丸便により新に農學士池田政吉、活動寫眞技師、田泉保直及本國歸還中の多田惠一、犬の世話役橋村彌八等は多數の補充品と二十九頭の犬とを率ゐて到着した。

 一行の勇氣は凛々たるものである。

 今回は必ず無事南極洲に上陸して日本男兒の面目を施さばやと心は勇んで踊上らんばかりと爲つた。

 之より前一行中身體の健康を缺ける者は本國に歸らしむる事と爲し船員佐藤、高取、及コック三浦の三名は郵船便にて歸還せしめたが今又丹野一等運轉士は病氣の故を以て歸還する事となり、其位地は土屋運轉士代つて占むる事と爲つた。

 其外新にシドニーより加はつた者には船員として三宅幸彦、濱崎三男作の二氏がある。

 噫シドニー郊外の夢!半歳の間辿つた儚ない効外の夢は破れて、今より震天動地の偉業に從事せねばならぬ。

 一行の任務は益々重きを加へた。

第一次計畫探檢隊員姓名

上陸隊員

隊 長   白瀬 矗學術部長 武田輝太郎衞生部長 三井所淸造書記長   多田惠一糧食係   西川源藏被服係   吉野義忠炊事係   三浦幸太郎犬 係   山邊安之助犬 係   花守信吉

船員

船 長    野村直吉一等運轉士 丹野善作機關長    淸水光太郎二等運轉士 土屋友治三等運轉士 酒井兵太郎事務長    島 義武木 工    安田伊三郎油 差    藤平量平機關士    村松 進水夫長    高川才次郎舵 取    佐藤市松同上     渡邊鬼太郎同上     釜田儀作火 夫    杉崎六五郎同上     高取壽美松料理人    渡邊近三郎水 夫    柴田兼次郎同上     福島吉治

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