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●三宅 幸彦(みやけ ゆきひこ):見習運転士(通訳)②

白瀬南極探検隊員の紹介(船員)
三宅 幸彦みやけ ゆきひこ:見習運転士(通訳)②


●データ
三宅 幸彦 27歳
和歌山県和歌山市
明治17年5月22日生
昭和40年10月25日没

■紹介

三宅幸彦は、京都で生まれ材木商の長男として和歌山で育った。中学3年の時、父親と意見が合わず祖父に連れられてアメリカへ渡った。 ロサンゼルスのハイスクール、アイオワのカレッジで学んだ後、ノルウェー帆船のにわか水夫となってアルゼンチンに渡る。その後隣国ウルグアイから英国船で欧州へ行った。その後、明治41年ニュージーランドの汽船会社で働く。

明治44年2月8日白瀬探検隊の開南丸がウェリントンに寄港したので、オークランドにいた三宅は喜びの余り、なつかしき祖国からきた開南丸に「南極を枕に大和心を成し遂げよ」と祝電を打った。開南丸は南極に向かい、三宅は同年3月にシドニーに渡った。 南極の地に上陸できず空しくシドニーに引き上げた白瀬隊に会いにいき「前に祝電を打った者です」と隊長に面会、語学力を買われ通訳として採用された。「こんな小さな船に、通訳とは大げさだから、名目は運転士見習ということにしてくれ」と隊長から言われた。

第2次探検隊に加わった三宅は、開南丸が鯨湾に入った時誰かが「海賊船だ」と叫んだので、よく見るとノルウェーの国旗を掲げアムンセン隊の迎えに来た船フラム号だった。幸い三宅はかつてノルウェー船に乗ったことがあるのでわかった。野村船長と三宅は隊長の命を帯び、通訳として船長ニィールセン以下11名を訪問。後から開南丸を訪問した士官2名は「こんな船では我々はとうていここまでどころか、途中までも来ることはできぬ」と驚いていた。

三宅は留学中、街頭で絵を描いて学費を稼いだほどの腕前で、南極探検時には「荒れる海」「氷海」「南極の生物」など片っ端からスケッチし、帰国後、それを畳半分ほどの美濃紙にまとめた。初めは油絵だったらしいが、中川八郎画伯の忠告もあって墨絵に変えたという。長男數彦氏の依頼で白瀬研究家の湯川氏を経て現在は白瀬南極探検隊記念館に保存されている。

なお、長男の數彦氏手記には、探検後は隊長はじめ隊員は、探検に費やした借財で長い間赤貧の状態だったそうで、無け無しのお金を融通しあったり、健康を気遣いあったりして生活苦を乗り切ったようだが、父も折りあるごとに励まされ、助けられていた中、モネやゴッホなど画家の絵を模写したり、海図を広げて母と楽しそうに語らうなど生活苦を感じさせない人生を歩んだように見受けられる、と表している。

三宅は家族に「日本人としての誇りを持て」「正直に生きろ」「人が困っていたら自分を捨ててでもできる限りのことを尽くせ」「物事に対処するには世界的視野で自分で考えろ」「いつお召しがあっても対応できるよう日頃から学んでおけ」と言っていたそうである。

三宅本人が記した履歴書を次に示す。

三宅幸彦の履歴書より(昭和27(1952)年9月74歳)

  • 原籍:「和歌山県和歌山市手平132番地」
  • 現住所:「千葉県印旛郡千代田町四街道158」
  • 生年月日:「明治17(1884)年5月22日」

学業

  • 明治30年5月〜明治33年7月
  • 和歌山県立中学校入学第3年級修了後渡米
  • 明治33年9月〜明治36年2月
  • 北米加州ロサンゼルス市市立ハイスクール入学。第2年級修了
  • 明治36年4月〜明治40年5月
  • 北米アイオワ州デモイン市私立デモインカレヂ入学。在学4年後南米渡航

業務

  • 明治40年10月〜明治41年4月
    アルゼンチン國英亜大西鉄道会社庶務課書記補助員として勤務。渡英
  • 明治41年9月〜明治44年3月
    ニュージーランド國ニュージーランド汽船会社庶務課書記補助員として在勤
  • 明治44年4月〜明治44年11月
    豪州シドニー市、小村貿易商会にて注文取及倉庫係として勤務
  • 明治44年11月〜明治45年6月
    白瀬南極探検隊(第二次)に参加、極地を経て帰朝
  • 大正元年10月〜大正12年8月
    大阪市、東印度貿易株式会社経営。ジャバ園バタビヤ(インドネシアのジャカルタ)支店長として在勤
  • 大正12年10月〜昭和6年11月
    ブラジル國、クリスタ・フリヤノーバ・ボヘミヤ硝子工場にて意匠係主任として在勤
  • 昭和7年1月〜昭和17年4月
    大阪市にて合資会社三宅商店を経営、床板製造販売業に従事
  • 昭和17年5月〜昭和19年4月
    東京都にて外語私塾(英・馬・西語)を経営
  • 昭和19年5月〜昭和20年1月
    東京都、山之内製薬株式会社輸出部在勤
  • 昭和20年1月〜昭和27年4月
    米軍8010部隊鉄道輸送司令部職員として勤務。千葉R•T•O主任(後半期)として在勤
  • 昭和27年4月〜
    講和成立に伴い千葉R•T•Oは閉鎖され自然解雇となる。依頼自宅にて水産動物図鑑の作成に従事

■参考文献

「雪原に挑む白瀬中尉」 渡部誠一郎著(秋田魁新報社)
「世界文化地理体系 月報24」
「履歴書」(昭和27年9月現在)

三宅数彦氏よりの資料
「死亡診断書」小櫃病院:医師倉持邦雄(昭和40年11月2日付)

■関連資料

三宅幸彦の履歴書(昭和27(1952)年9月74歳)
三宅幸彦スケッチ


三宅幸彦
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  長女:三宅昌子   長男:三宅數彦   次男:三宅保彦
          【1】

【1】 長男:三宅數彦 = 長男妻:三宅  
           │ (東京都練馬区)
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           長男:三宅     長女:三宅     次女:三宅  

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