会報

白瀬南極探検隊記念館・建設と役割 〜 白瀬南極探検隊記念館オープン前(平成2年4月20日)の対談   〜

今年は白瀬南極探検隊記念館がオープンして30周年になります。オープンの前日に行われた4氏の対談を当時の広報から注訳等を加え要約を紹介しました。白瀬記念館建設の設立趣旨を今一度振り返り、日本での唯一の施設としてさらなる飛躍を願っています。


  出席者    佐藤正之(当時町長) 

                 黒川紀章(建築家・白瀬記念館設計)

                 村山雅美(白瀬記念館名誉館長) 

                 楠  宏(白瀬記念館最高顧問)


佐藤町長「記念館もいよいよオープンとなったが、関係各位には心よりお礼を申し上げたい。白瀬中尉と探検隊の偉業を顕彰したいということで始められた事業であるが、砕氷艦「しらせ」ができて、一段と気運が盛り上がった。注① 今後、白瀬中尉と探検隊の資料館として、又、南極の科学館の役割を果すようにしていきたい。何より、青少年の健全育成に一役かうことができればありがたいと思っている。」

 黒川氏「私はこの記念館にはいろいろご縁がある。場所は金浦の黒川というところであるし、私の事務所に白瀬中尉のお孫さんが務めておられる。注②

最近は一極集中で、地方の活性化が大きなテーマとなっている。何とかそれを少しでも防ぎたい気運が出ているが、この記念館が少しでも町の活性化に役立てば有難い。」

 村山氏「私は昭和38年1月、斎藤憲三氏の紹介でここに参った。注③ その時には誠に淋しい寒村で、よくぞ白瀬中尉のような人材が育ったと正直思ったものである。黒川さんの設計でいろいろのイメージが湧く、立派な記念館ができて嬉しく思っている。建物が出来たので一層中身を充実させて、町長さんのおっしゃる子どもの夢を育てる砦になって欲しい。私も名誉館長なので、この記念館を全国に広め、ここに来ると南極のことが分かる館にして行きたい。」

 楠氏「私も南極に第1陣より行ったが、白瀬中尉については私なりに調べてきました。シドニー、ウインブルドン等に出張に行った時は、その土地を調査したり、南極の研究家に会ったり、白瀬中尉の業績を調べましたが、これからも白瀬に新しいものが発掘されると思う。これからは新しい器に、どういう新しい酒を盛るかが問題、仏作って魂入れずでは困る。又、明治時代の人々のスピリッツ、気迫みたいなものを、今の若者に復活を節に期待したい。」

 黒川氏「建物はイメージ通りできた。私のイメージとして記念館のまわりの南極広場を含めての全体環境計画のイメージがある。完成すれば公園を含めて、すばらしい全体公園となる。」

 村山氏「白瀬中尉の偉大さは、わずか200トン、18馬力の船でアムンセン、スコットと競い、スコット隊は極地の訓練計画があったが、白瀬隊はなかった。ゼロから出発して、南緯80度まで到着し、全員無事帰って来た。これはすばらしいことだ。

 黒川氏「探検の精神は、今も失ってはならない。未知の場所の探検は、これからは宇宙ぐらいであるが、現代社会では惰性を打ち破り、新しいものを作るのも探検精神がないとできない。今の若者にその精神が少なくなっているので大変不安に思っている。」

 楠氏「最近、魁新聞の渡部誠一郎さんが、野村船長の偉大さを書いておられたが、白瀬中尉と一緒に行った方々の偉大さもこれから調べて公開すべきと思う。」


注①昭和57年11月12日竣工・昭和58年第25次南極観測隊支援のため11月14日晴海埠頭初出航。隊長平沢威男、艦長佐藤 保。

注②白瀬潤=白瀬中尉三男猛の長男、当時海外担当営業部長。 初代白瀬記念館館長に内定していた白瀬京子氏(白瀬中尉の弟白瀬知行の孫)が白瀬潤氏を介して黒川事務所に設計を打診した。

注③齋藤憲三=明治31年(1898)平沢村(現秋田県にかほ市)で生誕。TDK創業者。科学技術庁政務次官を務めた。初代の南極観測船「宗谷」が老朽化したため、昭和37年(1962)2月8日基地が閉鎖(6次隊 吉川虎雄隊長)され南極観測が中断。村山雅美や時の政治家中曽根安弘、長谷川峻(たかし)らと南極観測再開に尽力した。昭和40年(1965)新観測船「ふじ」進水。7月竣工し11月20日第7次隊が出発した。

(7次隊隊長 村山雅美 艦長 本多敏治)

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