会報

開館30周年を迎える「白瀬南極探検隊記念館」        

           石井 久美子(南極探検隊長白瀬矗顕彰会副会長)

私は遅まきながら「NPO法人白瀬南極探検100周年記念会」「南極探検隊長白瀬矗顕彰会」に入会しました。どうぞよろしくお願いします。旧金浦町出身ですので、金浦小学校5年と金浦中学校2年時には、1月28日の雪中行進(白瀬中尉が大和雪原に到達した日)に参加しておりました。

 もうひとつ私が白瀬中尉に関わっていることの要因として、父(故佐藤正之(さとうまさし))が旧金浦町長時代に白瀬南極探検隊記念館を建設したことがあります。記念館は竹嶋潟に臨む南極広場とともに故黒川紀章氏のデザインによる南極の氷山をイメージしている建物です。

 父は秋田県立西目農業高校(現西目高校)の教師で、父、母、私の3人家族でした。母も私も教師である父しか知らなかったわけで、昭和55年に突然早期退職、その理由が金浦出身の白瀬中尉を顕彰する探検隊記念館を建設したいために町長に立候補するというものでした。

 私は寡黙な父しか知らないのですが、父が30代頃(教師としても若さでバリバリやっていた時期ということでしょうか)の教え子の人たちからは、豪放磊落で懐の深い人であったとの話を聞くことができました。

 なんとアダ名は「番長」であったというのですから、私の知らない時代の父の姿に触れ、最初は信じられない想いでした。

 佐藤の家も白瀬中尉の生家「浄蓮寺」の門徒です。もはや時効かと思いますのでここに記載させていただきますが、先代の御住職が、白瀬中尉を顕彰する趣旨も含めての施設を作ると口説かれて提供したのに、浄蓮寺の山のかげに(上に)できたのは“公民館”であったと父にこぼしていらしたことを記憶しております。父にとっては、ノルウェーのアムンセン、イギリスのスコットと南極点到達を競い合ったグローバルな英雄である白瀬中尉の偉業を忘れてはならない生誕の地金浦町としての矜持を示したいという一念での挑戦であったことでしょう。

 昭和60年(1985)から2期8年間、父が首長という立場に立たせてもらうことがなかったなら、白瀬中尉に関わる施設はできていただろうかとふと考えることがあります。当時は行政による主導だけでなく、官と民の協働ということが言われ始めていた時期でもあり、まさしく市民レベルの「白瀬中尉を蘇らせる会」の活動とも相まっていたことは、あざなえる縄のごとく、たくさんの力や希望が寄り合わさって実現できたというところでしょうか。世界の建築家黒川紀章氏デザインによる記念館が竹嶋潟に臨むこの地に誕生しました。今や私の父、母とも鬼籍に入っているわけですが、一念発起の夢を実現させることができた父は本当に幸せ者です。

 記念館ができて令和2年で30周年を迎えます。“箱物”の中身や活用を充実させていくことはたゆまず続けていってこそのものと思います。私も少しずつ白瀬中尉の足跡を辿りつつ、記念館の充実と事業の実施に微力ながらお手伝いできればと思っております。

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