会報

久生十蘭(ひさお じゅうらん)が「南極記」を書いた背景についての考察

人鳥堂本舗 / 大島ひとみ(調査専門委員会委員:船橋市)

掲載書名 /「十蘭錬金術」2012年6月20日初版発行 / 河出書房新社

十蘭の10件の短編を集めた単行本で、今回その中の1作である「南極記」についての考察。

本名:阿部正雄(1902-1957)/ 脚本家・劇作家・直木賞作家で演劇を中心とした活動は多岐に渡る。

・初出:「南極記」- 別冊文芸春秋-1951年(昭和26年)9月掲載 30ページ

白瀬隊の南極探検をベースに描かれた話ではあるが、決してストレートに賛美している内容ではないという事を最初に御断りしておきます。

1928年(昭和3年)、“バード大佐”が南極を3機の飛行機で横断した時の視点から物語は始まる。

皆様は既にお気付きの事と拝察致しますが、この時、彼は海軍中佐であった。

そして南極大陸上空を飛行中に、南緯80度05分の地点で赤ペンキを塗った三角の旗の存在を氷上に確認し、そこで白瀬探検隊の事を思い出す。

但し、書かれているのは白瀬氏の名では無く、「お粗末な指南丸という船で、南極へ行ったと法螺を吹いた隊長タカセ」となっている。

これだけでも、白瀬隊に敬意を払っておられる皆様に取って噴飯物の表現ではないかと思われるが、文中のニュージーランドタイムスの記者が“タカセ隊長”にこの探検についてインタビューした際の“記事”の記述は苦笑を禁じ得ない。その他、白瀬隊に関わる部分は微妙に名前等も変えられている。大正2年・南極探検後援会発行の「南極記」に関しての部分も、同様な表現をされている。

また、日本以外の国の南極探検についての記述等も延々と書かれており、読み始めた当初は「他の探検家達と白瀬隊を比較して、白瀬隊が如何に劣っていたのかを表現したいのか?」と感じ、また、現代の簡素な表現に慣れた目からみると、非常に回りくどい言葉の羅列にウンザリ仕掛かっていたのだが、最後まで読み進めてみて、ようやく十蘭が“バード大佐に言わせたかった事”が解る仕組みになっている。

しかし何故、登場する実在の人物や地名を敢えてそれとなく変える必要があったのか?という疑問がある。

作者、久生十蘭はフランスで学んだ経験もあり日本の演劇界に多大な影響を与え、明治44年に日本で大流行したフランス映画「ジゴマ」(主役の凶悪な行いが日本社会に多大な影響を与えた為、同45年に興行が禁止される)を昭和12年に翻訳(かなり内容を変更)して発表している。彼は「史実や実際の事件の内容を微妙に変えつつ、根本のテイストを残しながらあたかも別の事柄のようにすり替える技法」を得意とした。飽くまで私の推測ではあるが、今回の彼の「南極記」に於ける表記は、当時未だ生存していた白瀬南極探検隊に参加・関連した方々への配慮なのであろうか?

十蘭の「南極記」をただ単に“白瀬隊の功績に関しての変化球的な創作表現”と見る事は可能である。しかし残念ながら、この「南極記」が創られた背景については全く資料を発見出来なかった。

拠って、何故この作品を彼が1951年(昭和26年)に発表したのかを考察してみたい。 1946年(昭和21年)、国際捕鯨取締条約が締結された。

1951年(昭和26年)は、戦後の食糧難解消の為に、第二次世界大戦中は中断されていた日本の南氷洋捕鯨事業が再開され、日本は国際捕鯨委員会(IWC)に加盟し、また、“捕鯨オリンピック” (IWCの通達で、世界全体での鯨の捕獲許可総重量枠を定め、国家規模で早い者勝ちで捕獲して良いという、とんでもないルール)が開催された年でもあった。当然ながら日本も参加している。

1938年(昭和13年)9月に竣工し、南極海で捕鯨船として活躍した“第三図南丸”は1941年(昭和16年)に海軍に徴用されて物資輸送を行った。

1944年(昭和19年)、トラック島において米軍の空襲により被弾・炎上して沈没したこの船を、戦後の捕鯨事業に再使用する為に調査を行い、使用可能と判断し捕鯨母船として蘇らせる為に日本まで曳航したのが1951年(昭和26年)でもあった。

つまり、日本に取ってこの1951年という年は国家が捕鯨事業を掲げ、国民が南極と言う場所に関心を向ける要因となる様々な出来事が起こった年であり、それで十蘭は南極 = 白瀬南極探検隊という連想を得たのではないか?

白瀬隊が南極から帰国したのは明治45年(1912年)で、当時十蘭は10歳だったから当然白瀬隊の事は記憶にあったと推察している。

そして私の所蔵する資料からも、戦前の昭和11年~昭和16年に国家的捕鯨事業の推進を掲げた幾つかのイベントが行われていた事が判明した。拠ってその捕鯨事業については当時34歳前後であった十蘭も何らかの形で耳にしたであろうことは想像に難くない。

然しながら飽くまでも現時点では考察の域を出ていない段階であり、コロナウィルスの影響により行動が制限されている為、今回の寄稿内容は当時の事柄を詳細に調査した上での結果では無い事をご理解・ご了解頂ければ幸いである。

私は常に「博物学の見地」から、ある事柄について「なぜ、当時そのような事があったのか?」という謎を解く事を趣味にしている、純粋な ”Amateur” (私的道楽研究家)を自認している。

故に、白瀬隊に関するあらゆる事柄についても、当時の世俗・通俗との関連から様々な資料やヒント・背景を引き出して謎解きのパズルの一片を埋める事を本意としている。

最後に蛇足であるが、戦没した初代図南丸は白瀬隊長の御子息・勇氏が勤務していた船である。

白瀬隊長がご自身の著、「私の南極探検記」(1942年/皇国青年教育協会出版)の序文に「図南の翼を伸長せんが為」という事をこの探検の目的の一つに掲げられている。

図南とは中国・荘子の「逍遙遊」からの出典で、「図南鵬翼-鳳凰の翼に乗って南方へ向かう」-転じて「壮大な事業や行いを遠い地で成功させようとする意志や計画」を意味しているそうである。

その言葉を冠する船に御子息の勇氏が乗船されていた事は単なる偶然なのであろうか。

そして白瀬隊長ご自身も、戦前の重要な国家戦略の1つである“捕鯨事業”喧伝の為に利用されていたと思われる資料も私は複数所蔵しており、今後時間を掛けて、「白瀬氏と捕鯨事業との関連」を調べてみたいと考えている。

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