会報

『南極に立った樺太アイヌ』 南極探検隊秘話雑感

佐藤忠悦(調査専門委員会会長)

 高校受験を準備していた頃、国語の問題集に作品名と作家を結びつける問題があった。例えば、芥川龍之介…「蜘蛛の糸」、夏目漱石…「吾輩は猫である」のように。その中に金田一京助…「あいぬ物語」があって、その作品を読んだことのない私は、あいぬとは人の名前だろうかと思ったくらい全く知識はなかった。 

 ただ樺太(現ロシア領サハリン州)については、戦前、金浦町は漁師町ということもあって、家族で樺太に渡り漁業などに従事する者も少なくなかった。

 しかし昭和20年の敗戦によって、これらの人たちは樺太を追われるように郷里へ引揚げ、苦しい生活を強いられた。引揚者のなかには級友もおり、幼いながら樺太は寒さ厳しい遠いところという話を聞いた記憶がある。

 平成10年3月、40年間勤めた町役場勤務を終え、生まれ故郷のために何か役に立つことしたい。この思いを当時の町長に願い出て、白瀬南極探検隊記念館の臨時職員(嘱託職員)として勤務することになった。そこで白瀬隊のなかに二人の樺太アイヌがいることを知り、アイヌ民族と樺太に関心を持つようになり、参考文献や関連記事を読み漁った。調査していく中で、初代金浦町長北能喜市郎の実弟佐々木平次郎が、樺太東海岸トンナイチャ(日本名富内)に漁場を持ち、後に白瀬の南極探検隊に犬係として参加した山辺安之助がそこで働いていたことを知り「真実は小説より奇なり」を実感し、私の山辺安之助に対する調査研究の発端となった。

 平成12年の夏、私は有志と共に二人の樺太アイヌ隊員と、南極に置き去りにされた樺太犬の慰霊のためサハリン(樺太)に渡った。私たちが訪れた山辺安之助の故郷レースノエ(日本名落帆、アイヌ名オチョポッカ)は人の好いロシア人が住んでおり、私たちを自宅に招き入れ、しぼりたての牛乳と自家製のパンを御馳走してくれた。ここレースノエは若き言語学者金田一京助が樺太語研究のため訪れた土地で『心の小道をめぐって』にその苦労が記されている。

 現地のロシア人にアイヌの墓地があったという原生林に熊の恐怖を感じながら案内されるが、土饅頭のような形跡はあったものの、アイヌ特有のイナウなどの葬具品を確認することはできなかった。私たちはオチホ川を見下ろす小高い丘の上に、持参した慰霊の標柱を立てて、二人の樺太アイヌ隊員と樺太犬の冥福を祈った。

 帰国後、同行した魁新報、共同通信社の記者が、大きく紙面を割き報道したため、戦前落帆や富内に住んでいた人や、樺太アイヌを研究している先生等多くの方々から情報が寄せられ、当時の落帆や富内など和人とアイヌの人たちの関係を知るとともに、時代の波に翻弄された少数民族アイヌの悲劇に同情を禁じえなかった。

 平成13年、故村山雅美先生から二人の樺太アイヌ隊員についての原稿を依頼され稚拙な文章を「極地」73号に搭載されたのが『南極に立った樺太アイヌ』を執筆する切っ掛けになった。

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