会報

橇曳 カラフト犬

白瀬南極探検隊そして日本南極観測隊 小柳伸光

 当初南極点を目指す白瀬南極探検隊の橇隊の主役は満州(現中国・東北部)産の馬だった。それがカラフト犬に代わったのは204トンの木造機帆船「開南丸」しか入手できず、積み荷のスペースがなくなるための苦肉の策だった。

 窮状を知った当時の樺太日日新聞社と函館日日新聞社が雪と寒さに強いカラフト犬の提供を紙面で広く呼び掛け、官民の協力で30頭が集まった。明治43年(1910)10月のことだった。

 30頭中、2頭は函館市からの提供であり、このうちの1頭が写真のモクである。

 集まったカラフト犬は年齢が3歳から6歳までの強壮犬で白、黒、ぶちの三種、値段は先頭犬15円、他は3円という値段であった。

 30頭のうち1頭は出航前に逃走し、29頭が乗船した。その犬たちも1頭マルを残し寄生虫(サナダ虫)により南極海へ接近するまでに死んだ。

 曳犬のほとんどを失った白瀬隊は、カラフト犬の補充を後援会に要請、後援会は樺太日日新聞を介して橇犬係の山辺の甥にあたる尾山富治や息子弥代吉らの働きで30頭を確保することができた。

 そして山辺の朋友、橋村弥八(はしむらやはち)が明治44年(1911)11月15日、「熊野丸」で犬たちに付き添い白瀬隊のキャンプ地、シドニーまで送り届けた。

 その犬たちも白瀬隊の撤収時、食糧不足や天候の悪化により6頭を除き、氷堤上に置き去りにされた。

 犬係であったアイヌの山辺、花守は帰郷してから「犬を殺してきた」と査問にかけられた。処分の内容は不明ながらかなり重かったらしい。

 日本に帰った犬6頭のうち5頭は後援会の幹事や名士たちに贈られ、ブチという犬は樺太に戻り天寿を全うし、樺太の土になった。

 犬を置きざりにしたことは、隊員たちの胸中に悔恨の念を残した。隊長の白瀬も南極に置き去りにせざるを得なかった犬隊員たちへの慚愧の念は、終生忘れ去られることはなかった。

それから時代を経て、昭和33年(1958)2月11日、第1次越冬隊で1600キロメートルを駆け巡り活躍したカラフト犬が2次隊の越冬が悪天候のために中止になり、荒天で「宗谷」に連れ戻すことが出来なかった15頭が南極に置き去りにされた。

 そして、置き去りにされた15頭のうち2頭が第3次隊に生きて発見された。それがタロ、ジロでこのニュースは日本全国民に感動を呼び、映画にもなった。

 その後、タロ、ジロは第4次越冬隊(1959~1961)とともに南極で暮らし、ジロは越冬が始まって6月に昭和基地で病死した。

タロは昭和36年(1961)5月に「宗谷で帰国し、札幌市の植物園内にある北大附属博物館で余生を送り、昭和45年(1970)に老衰で死去した。

 現在両犬とも剥製にされ、タロは生まれ故郷の北大植物園に、ジロは上野の国立科学博物館に展示されている。

両剥製は平成3年(1991)1月26日から3月31日まで白瀬記念館で開催された企画展「南極越冬とカラフト犬の活躍」で30年ぶりに再会し、大きな話題となった。

当時は離れ離れになっているタロ、ジロを一緒にさせようと「タロとジロを一緒にさせる会」が横路北海道知事も協力し活動していたが、なかなか実現しないでいた(現在も実現していない)。この特別展示会を企画担当したが、この剥製の借用にあっては大変難儀した思い出がある。

タロの借用依頼を北大に出すと「ジロの借用を科学博物館が了承であれば」と、科学博物館では「タロの借用を北大でOKすれば」と、どちらもらちの明かない返答であった。

 その時に支援の手を差し伸べてくれたのが、第1次越冬隊の地質・犬係の菊池徹先生と第1次から数回南極観測に参加している白瀬記念館最高顧問の楠宏先生であった。両先生の大きな力、そしてその人脈で実現したタロ、ジロの30年ぶりの再会であった。

 昭和基地開設60年が経過したが、初期の南極観測で活躍した両犬の剥製を一緒にして東京立川の「南極北極科学館」に永久展示し、カラフト犬を顕彰していただきたいものと希望している。

 タロの余生を面倒見ていた方は、私と同姓の小柳慶吾氏であった。余談ながら。

もうひとつ余談。映画「南極物語」に出演した役者犬の子犬2頭を稚内から譲り受け、成長後稚内市で開催された「全国犬ゾリ大会」や札幌市での「カルビーカップ世界犬ゾリ大会」に出場し、数回優勝した。

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