会報

白瀬矗を生んだ金浦

調査専門委員  石船清隆(白瀬記念館学芸員)

■金浦という地域

 秋田県にかほ市は、平成17年10月1日に象潟町・金浦町・仁賀保町の3つの町が合併してできました。

 金浦町は明治35年(1902)から町制となりましたが、それまでは金浦村でした。上古(一般的には、大化の改新以前)の時代には、中山村に住んでいた村人が移住して、木ノ浦に住んだといわれ、木ノ浦から金浦と名前が変わったと伝えられています。

■金浦村の漁業

 漁業が金浦で古くから行われていたことは、旧藩時代の断片的記録によって明らかで、タラ、サケ、マス、カレイ、ヒラメ、タイ、ハタハタなどの漁獲物がありました。

 地付漁業を主体とする磯漁のほかに、優良な港湾を有することから、タラ船などの「沖合漁業」も行われていました。

 金浦でタラ(鱈)は特別な存在で、毎年2月4日に獲れたタラを金浦山神社に奉納する掛魚(かけよ)祭りが行われています。

■漁村での生業

 金浦の古い記録「海岸小児遊戯の事」に、金浦村に生まれた子どもの遊びは、木を削り、破れ紙を帆に作って船を作り、穴子を500本釣って、2匁(もんめ)で売り、その穴子を100本誰かが買って餌にして、小鯛500匹釣って、3匁にして売ったとあります。また、大人の話や経験を聞いた子どもは、大人になっても忘れることはなく、幼少期から生きていく術を遊びながら直観的に身につけて育ちました。

■鱈と鰰

 鱈はお歳暮や新年の褒美に使われ、江戸時代、本荘・六郷藩や矢島・生駒家では、年末年始のときに、殿様が家臣に鱈を1、2匹贈る風習がありました。

 「掛魚(かけよ)まつり」は、400年以上も行われているといわれ、毎年2月4日、鱈を2人で担いで神社に奉納する伝統行事があり、行事の見学とその後に振舞われる鱈汁を目あてにした多くの見学者で賑わいます。

 鰰は、江戸時代にかなりの量が獲れたことから、仁賀保家では役銀(税金)を徴取している記録が残っています。獲れた日に、だれが、何匹とったかの記録を取り、最終日に精算し、役銀を徴取したようです。

■漁村におこる災害や事故

 鰰漁や鱈漁は、時に多くの恵みをもたらしましたが、反面、変わりやすい天候のため「海難」がたびたび起こりました。

 白瀬矗の著書『南極探検』の中で、「表日本と比べて波が荒く、骸骨のような岩が海岸に立っていて、それが悪魔のような怒涛と互に狂い合い、壮大を通り越してむしろ凄惨な光景である」と日本海を表現しています。

 鱈漁は厳冬期に行っており、乗組員が5人~7人も乗船するため、何隻も海難事故があると村の男衆が激減することがたびたびありました。

 白瀬矗が4歳だった慶応元年(1864)12月2日、出漁する朝は天気が良かったのが、巳の上刻(午前9時)ころから風が変わり、たった1時間ほどで、大雪の暴風になりました。結果、15艘の船に乗った100人のうち、66人は助かりましたが、34人は亡くなってしまいました。

■仁賀保地域が戦場になった戊辰戦争

 白瀬矗が生まれた文久元年(1861)は、まもなく江戸時代が終わり、明治を迎えようとしている幕末でした。白瀬矗が6歳だった慶応4年(1868)、金浦を含む仁賀保地域は戊辰戦争の激戦地となりました。戦いは、旧幕府側の庄内藩と新政府軍側についた秋田・佐竹藩、そして仁賀保家の連合軍との間で行われました。

 昭和18年に小滝村の神官・阿部貞臣により編纂された『戊辰戦役仁賀保戦場記』は、昭和3年に秋田県が主催した戊辰戦役60周年の記念展覧会で、多くの資料を阿部が実見したことをきっかけに刊行されました。とくに秋田藩の荒川久太郎の正確な日記によって、戊辰戦争の記録をまとめる意欲がわき、仁賀保地域の住民を中心に聞き取りをして編纂しました。その中で金浦に関しては、佐々木節斎の孫・佐々木ヤスと浄蓮寺住職・白瀬知道(矗の弟)に聞きとりした内容が記されています。

                                   以下次号

 当記事は、白瀬記念館で開催中の「白瀬矗を生んだ金浦」に

  よるものです。企画展は3月14日まで開催中です。

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