会報

白瀬矗を生んだ金浦(下)

調査専門委員 石船清隆(白瀬記念館学芸員)

■医師・佐々木節斎と金浦

 阿部貞臣が浄蓮寺・白瀬知道から聞き取りした内容は、父・知行の代について「戦争の時には寺に陣営せらる秋田軍の陣せし時は寺を惣明し、庄内軍の陣せし時には寺に居りし、庄内兵曰く六郷の領分なれば隅から隅まで皆焼き払う。六郷のやつ方おら家さ鉄砲を借りに来ておらえを撃つから皆焼くという。また芹田川合戦の時、庄内敗れ追われれば都合悪いから金浦を焼き、火の野にして敵を防ぐと十か所に火を付く。一同恐ろしく佐々木節斎、浄蓮寺知道、浄光寺御住職某、観音寺御住職法印と袈裟衣にて與惣右衛門に至り中飯も食せずして終日願う。時に秋田勢には宿貸さぬ事。若し貸した時には吾々の首を出すからといいて願いを叶う。以上御寺の力と節斎の申立にて許される。両方の戦死者の死骸を供養読経し兵隊達より礼を致さる。」

 佐々木ヤスからは「祖父、節斎は鶴岡にて医師を学びし人なり。庄内軍名主與惣右衛門を初め所々に松明にて火を放さんとす。節斎その隊長方を皆知合うにより直接嘆願に出てその顔に免じて金浦村は焼失を免れたり。これ偏に佐々木節斎の御蔭なりといい合えり。」との聞き取りを記述しています。佐々木節斎は、佐々木清兵衛家第12代目、天保3年(1832)に生まれ、明治9年(1876)44歳の若さで亡くなりました。金浦では医師を務め、また寺子屋の師匠として、子どもたちに北極の話やコロンブス、マゼランの話をしたことから、白瀬矗の探検心を開花させた人物でした。

鑑札(医術開業免許)
明治8年(1875)3月22日
明治8年8月25日に秋田県医則という医療制度のもとに交付された佐々木節斎の医師免許証。
(佐々木清兵衛家文書 個人蔵)

 聞き取りの内容からわかるように、近隣の村々が焼かれたため、金浦の民衆も焼き討ちを恐れ、子どもや女性、老人は山田という所に避難しましたが、男衆は金浦の山々に配置され、かがり火を焚き、仁賀保家に協力していたことが仁賀保家の資料からわかっています。

 白瀬矗自身の著作などには、戊辰戦争時の思い出を記述しているものは今のところ見つかっていませんが、このように、白瀬が生まれた時代の金浦は父・知行を寺に残したまま、白瀬一家は避難したと考えられます。

 金浦周辺は、戊辰戦争の激戦地となった場所です。白瀬は子どもの頃、明治維新という時代の大きなうねりの中に生きていたのです。

「秋田庄内戦争区域地図」
阿部貞臣編纂 昭和18年 『戊辰戦役仁賀保戦場記』から
(にかほ市象潟郷土資料館所蔵)

【参考文献】

・『金浦町郷土史資料第一巻』

・金浦町史編さん委員会編 1990 『金浦町史上巻』

・仁賀保町教育委員会編 2005 『仁賀保町史普及版』

・石船清隆 2016 「金浦・佐々木清兵衛家に見る節斎資料」 

  にかほ市郷土史研究会編 『雄波郷』 pp143-156

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