会報

会報1:特別寄稿 白瀬南極探検研究の方向

渡邊興亜
白瀬南極探検隊記念館参与(元国立極地研究所所長)

 NPO法人白瀬南極探検100周年記念会が今後、会報の発行を含め、白瀬南極探検隊研究を推進し、記念館に協力し、その充実をはかる方向とのこと、白瀬南極探検に関心を持つ者としては同慶の至というべきであろう。

 この機会に「白瀬南極探検隊」研究の進むべき方向について私見を述べたい。

白瀬南極探検隊は、明治維新によって日本が幕藩体制下にあった封建時代を脱し、近代国家として歩みだした「明治」という時代の後半に行なわれた。

探検の目的は当時としては最前線のものであり、「探検」という近代的概念の基に実行されたという点で注目すべき企てといえるだろう。

なぜ「明治」という時代に「そうした活動」が可能になったのかということは近代的文明史観から見ても、「白瀬南極探検隊」研究の眼目であることは紛れもないことであろう。

 研究の眼目を詳しく考えると、国際的に見ても当時としては最前線と言える行動が、「明治」という特異な時代と如何に関連して発想され、実施されたかのプロセスを明らかにすることにある。

「その時代と探検」という古くからの課題でもある。

研究課題としての第一点は、探検に関する情報がいかにして得られたのか。

第二点は得られた情報をもとに、探検に必要な準備がいかに可能となったのかにある。

 具体的な研究課題のいくつかを述べる。

白瀬矗個人が「南極探検」をいかに構想したかについてはすでに多くの説が存在しているが、加えて、当初白瀬探検隊を支援した朝日新聞の杉村楚人冠の見識との関連に関する研究を提起したい。

楚人冠を含め朝日新聞関係者は結果的には探検隊に参加しなかったが、探検隊に与えた影響は計り知れないものがある。

楚人冠は探検隊の出発に当たり、朝日紙面に10回に亘り記事を寄せているが、その内容に関する詳細な研究が必要であろう。

そこに記述された「近代探検」に関する情報は卓見というべき内容で、白瀬隊のその後の行動に深く関わっている。

楚人冠がそのような情報を如何にして海外から得て、それら情報をいかに評価していたか。

これに関連し、1902年に成立した「日英同盟」の影響も無視できまい。

 野村直吉船長の評価に関する研究も提起したい。

当時の日本人にとって未知であった南大洋の航海を成し遂げたかという事実を、南大洋に関する航海情報の獲得、暴風圏通過という当時極域接近の最大の課題を含め、「開南丸の性能」とも関連して、広い視野の下に研究することも重要である。

「開南丸」という機帆船の航海術を如何に学んだかについては、野村船長の出自である北前船の航海術との関係を含め明らかにすべきであろう。

さらに課題を提起するとすれば、第二次航海に参加した田泉保直による映画撮影の背景に関する研究である。

この撮影に関しては田泉撮影技師の苦労もさりながら、彼を南極に送り出したM.パテー商会の梅谷庄吉の見識と当時の日本における活動写真界の状況、ドキュメンタリー映像に関する当時の評価に関する検討であろう。

これに関して、社会考現論としては日清・日露戦役との関連も無視できまい。

 「白瀬南極探検」の評価は現代人にとって、古くはあるが新たな課題でもある。

白瀬矗個人の伝記的評価論から脱して、近代文明史観からの再評価を期待したい。

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