会報

会報2:取材「白瀬中尉の思い出」木村義昌 氏

白瀬中尉の思い出
木村義昌氏


1985年12月5日、千葉県九十九里町にお住まいの木村義昌氏(元白瀬記念館建設委員会参与)のご自宅にお伺いし、白瀬との出会いを取材した時のお話と、北極クラブの会報「アークトス」(1985年6月10日号・1987年2月1日号)への投稿文を交えて編集しました。

白瀬夫妻と蒲田にて 右端 木村氏 左端 谷口氏 1935年5月25日

小柳 白瀬中尉と初めてお会いした時の思い出についてお話を聞かせてくれませんか?

木村 友人の谷口善也君(元記念館建設委員会参与)と極地の文献をあさり熱を入れていたので、白瀬中尉の南極探検は知っていて、白瀬中尉に会いたいと思っていました。

小柳 当時の白瀬中尉の住所をどのようにして知りましたか?

木村 白瀬中尉という方は、いったいいずこに住んでおられるか、果たして生存なさっているのか当時はわかりませんでした。

そうした中で、秋田の金浦での記念碑落成式(偉功碑 昭和9年9月5日)の新聞記事で白瀬中尉がご健在であることを知り、住所を当時の金浦町役場に照会しました。

そこで、生きておられる白瀬隊長に是非お目にかかろうと考えました。

そして、白瀬隊長に色々なことをお尋ねしようと、その前に南極探検の知識を事前に調べておこうと思い、名前だけは知っていた「南極記」を手に入れ ようと古本街の神田、本郷、早稲田、三田あたりを探しました。

約1年近くを各古書店を探しましたが見つかりません。

そしたら、谷口君が本を見つけたと言ってきました。

翌日、二人は一緒に古本屋に駆けつけました。

その本屋は、高田馬場駅の淋しい街並みの家屋も少ない畑が点在するところにあった、みすぼらしい店でしたね。

本はいくらか擦れているところもありましたが、かなり分厚く立派なものでした。

いつもは、古い書籍は若干の値引き要求をするのですが、この本だけは、言い値の50銭で買い求めました。

当時の50銭は使い方によっては相当の額でしたね。

南極記を探して本郷の古書店を回っていた時、その日は皇室関係の何か行事があり多くの警察が警戒にあたっていて、私服の警察から職務質問されましてね。

こうしたこともあり、南極記を求めての古書店巡りは印象に残っていますね。

小柳 白瀬中尉をお尋ねしたのはいつでしたか?

木村 私と谷口君と白瀬中尉をお尋ねしたのは、昭和10年5月25日でした。

その日は快晴でしたね。

日暮里駅から京浜国道の方向に歩いていきました。

国道を横断するとその先は人家もまばらでしてね。

東京湾の一部も見えましたね。

 白瀬中尉のお住まいは、只の原っぱ同様の羽田飛行場の近くにありました。

現在は倉庫、工場、マンションが隙間なく建っている大田区の一部にあたりますが、あの頃は郊外で、一面の水田、沼地と養殖池などの湿地帯で、のんびりとした田舎風景でしたね。

 そこに、遠くからも判る、平屋で黒くコールタールで塗られたトタン屋根の粗末な一軒家が見えてきまして、白瀬中尉のお住まいと判りましたね。

小柳 白瀬中尉は当時は奥様とお二人での生活だったと思いますが。

木村 白瀬老中尉とやす夫人がひっそりと住んででおられましたね。

 南太平洋の暴風の海をのりきり、ロス海から南緯80度の氷床に達したその人がいるのだと思うと、心の高鳴りを覚えてきましてね。

明治の晩年に血判までして氷の大陸に遠征を企て、これを実行した人物だから、さぞ猛々しい気性の英雄タイプの人物だろう。

また老退役軍人だから、気難しい近寄り難い方ではないかと勝手にイメージを抱いてお伺いしたわけです。

小柳 初対面の印象はどうでしたか?

木村 当時白瀬は75才でしたが、私たちが想像していたよりも若く元気で、円満なご容貌されていました。

身長は多分162センチ位とみうけられましたね。

太ってというよりも筋肉質の体格で鍛えた頑丈な方でしたね。

 前触れもせずに、突然訪問した初対面の私たちを笑顔で「ささー、どうぞどうぞ」と招き入れてくれました。

やす夫人は白瀬中尉と対照的に、痩せた方でしたね。

私たちは、招かれるままに、縁側から座敷に遠慮なく上がらせていただきました。

 白瀬老中尉は黒のうす地の上張り風の簡素な衣類を着用したラフな格好でしたね。

偉大な探検家というよりもどこでもお目にかかるお爺さんと変わらないと思いました。

室内は家具も少なく質素なお住まいでしたね。

座敷の柱にはアムンセンの力強い筆跡のサインの丸額が下げてありましたね。

このサインはアムンセンが来日し、昭和2年6月21日に東京の報知新聞本社での互いに署名交換した時のサインとのことでした。

 アムンセンは自分を「おう開南丸!」と言葉を繰り返して固い握手をし、アムンセンの眼には涙が見られたと話され、また、なぜまだ中尉なのかと問われ、困ったと当時を懐かしく話されましたね。

小柳 そのアムンセンの額の話は初めてお聞きしますが、その後どうされたでしょうね?

木村 その額はそれ以来見たことがありませんね。

ただ、知人の長崎大学教授で日本山岳会員の岡田喜一さんから写真にして保存しているとのお話は聞いたことがありますが、確認はしていませんね。

白瀬翁は我々にはお菓子とお茶を進められ、ご自身はコップ状のビン詰めのガラス容器に注がれた水を飲んでおられました。

子どもの頃からの戒めを守られていたのですね。

小柳 白瀬はどんなお話をされましたか?

木村 最初に聞いた翁の言葉は、南極探検が実行できたのは大隈重信侯爵のお蔭であったと感謝を述べられ、さらに多くの国民の支援によるものであったと、しみじみ語りはじめましたね。

桂内閣との対立で下野していた大隈侯は、遠征費の一部を政府に頼んだのに対し、糠に釘の対応で、後援会長としての人間的信用を持って尽力され、熱意をそそいでいただいたと、どもるというほどではないが、少し口ごもるような東北の方らしいやや重い発音で話されました。

時間の経過も気付かない夢中に話を聞きましてね。

持参した「南極記」に署名をいただき日没が迫る頃に辞去しました。

「南極記」は自分は方々転居したために本書はもっていません。

よく手に入れましたと関心した様子でしたね。

 1年程たって1冊を入手して届けましたけどね。

この訪問が契機になり、度々訪問し、私たちの日本極地研究会の会長にも就任していただき数々のお話もお聞きしました。

文通もして長年お付き合いをさせていただきましたよ。

小柳 色々貴重なお話ありがとうございました。

また機会がありましたら、白瀬研究、検証についてのお話をお聞かせください。


木村義昌(きむらよしまさ)氏 1913~1998
1933年谷口善也氏と日本極地研究会を設立し、南極・北極の探検史を中心に研究した。白瀬記念館建設委 員会参与として谷口氏とともに記念館建設にも貢献した。

*著書
白瀬中尉探検記  1942 木村義昌・谷口善也共著
南極・歴史と将来 1956 木村義昌・谷口善也共著

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