会報

会報3:「シドニーウラーラ市の歴史」楠宏 氏訳(2016.2)

日本南極探検隊
(Passley Bay place of the heart)
楠 宏氏訳(2016・2)

 パースリー湾保存区の歴史の中で1911年に、白瀬矗を隊長とする総員27人がシドニーで冬を過ごしたことはあまり知られていない。

南極へ初めて到達を試みたが悪天候などの困難により引返さざるを得なかったのである。

 白瀬隊は204トンの帆船「開南丸」で1910年11月東京を出航した。

悪天候のため南極から引返し、1911年5月1日にシドニーに入港した。

港の各所でキャンプ地を探した結果、パースリー湾保存区(Parsley Bey Reserve)に落ち付いた。

ロバート・ヒリアー(Robert Hilliar)少年は当時4才か5才で、白瀬の隊員が物資を”現在のパースリー湾に通ずる道路にごく近い場所”に運んでいて、林の中にキャンプを張っていたのを覚えていた。

白瀬隊の複数の小屋は木造部分を解体すると平らな部材となり、現場で組立てられた。

ヒリアー氏によると、小屋は極めて快適であったとのことだった。

キャンプ地はヒリアー家にごく近く、家族は隊員たちと極めて仲良くなり、ヒリアー少年は”ほとんど隊員隊のキャンプ住まい”だった。

このような親近感はキャンプ地周辺の住民にも共通で”日本人訪問者”として歓迎し、隊員は地域住民に銃剣道などを演技をしたりして友好関係を続けた。

当初、白瀬隊の滞在についてボークレーズ議会(Vaucluse Council)はキャンプ地の衛生維持を問題にした。

また、アジア人に対する恐れは当時のシドニー新聞で大きく取上げられ、探検隊のキャンプがサウスヘッド(South Hesd)要塞近すぎる。

隊に軍事スパイがいるという記事が多くあった。

 南極探検家でもあったシドニー大学のエッジワース・デビット教授(Edgeworth David)は上記のようなうわさや誇張話に対し健全な意見を述べ擁護した。

 白瀬隊に対する偏見の嵐が止んだのは、船が修理に入ったころだった。

資金調達に一時帰国した幹部が戻って間もなく1911年11月に白瀬隊は南極へ向かった。

 ヒリアー氏は白瀬隊の出発した日を記憶している:”パースりー湾周辺の地域住民全員が見送りのためにレィディス商店(Reidis)の裏の崖の上に立ち並んだ。 (Woollahra図書館口述歴史(資料):面接:Robert Thomas Hilliar 1993.6.16)

 ヒリアー家にはダービー(Derby)という名のクイーンズランド牧畜犬がおり、白瀬隊で非常に人気があったので、ヒリアー氏の父は白瀬隊出発の時に贈呈した。

 白瀬隊が最後の荷物を積み出航にかかった時、突然一隻のボートがパースル湾に戻り、老犬ダービーとともに接岸した。 (Woollahra図書館口述歴史(資料):面接:Robert Thomas Hilliar 1993.6.16)

白瀬隊はダービーが短毛種なので南極の寒さには不適当と考えたためであった。

人の一生には奇妙な出会いがあるが、ロバート・ヒリアー氏は1911年、探検当時の幼年時代の友人(隊員)と再会している。

1955年に仕事で日本を訪れた時、皇居の堀のそばにある小さなホテルに泊まったフロントの話から、ヒリアー氏の世話係は1911年の日本の南極探検隊の隊員と判明した。

楠 宏(元白瀬南極探検隊記念館最高顧問)

国立極地研究所名誉教授
1956 第1次 夏隊
1966 第8次 副隊長 
1968 第10次 越冬隊長  
1972 第14次 観測隊長 
1976 第18次 越冬隊長 

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