南極記デジタル書籍紹介

南極記:第六章 南氷洋の再航(原文)

 危機一髪、漸くにして逃れ出でし開南丸は、二月四日午前十一時出帆後、絶えず吹雪と流氷とに襲はれつゝ進んで往つたが、明くれば五日、船は今しも目指すコールマン島方面に向つて、氷海を駛走して居る。

 之れは同島に立寄りて、ペングイーン島及鑛物を採取せん爲めである。

 船中にては兎も角、今回の成功を祝さん心にて、甲板上に於て、祝抔を擧げた。

 先づ兩陛下の萬歳を唱へた上、探檢隊の萬歳を唱へた。

 其聲は海波に響いて氷海の鯨鯢を驚かしめたが、前日來の疲勞の爲め折角の馳走も味ふ者なく、ソコ〱にして各々寢室に急いだ。

 翌六日。 午後四時頃より降雪頻に至りて咫尺を辧ぜず、甲板上に寸餘も積んだ。

 海上にはチラホラと流氷も漂ふて居た。

 翌七日も。翌々八日も。

 氷山海上に漂ひ、點々として碧波と水晶と相映發する状は、實に又なき美觀であつた。

 八日船内眞時十一時三十分太陽の高度は零度五十九分四十秒であつた。

 其方位は羅盤方位西東である。

 最底高度は二月九日午前零時二十分にして、其高度は殆ど水平に近き零度四十分であつた。

 此第二次航海で、太陽の水平線下に沒せざるを發見したのは、明治四十四年十二月二十七日の夜半であつたが、それより南に進むに随つて、太陽の最底高度も次第に高く、南緯七十八度三十一分なる鯨灣附近に於ては其最底高度は十二度以上で、殆ど晝夜の區別も判らない程であつたのだ。

 然るに今や歸途此地點まで來ると、太陽が正に水平線下に沒せんとするに至り、一晝夜中に夜と云ふ物も少しづゝ生ぜんとするに至つたのである。

 九日朝來雪降り來り、又霰の甲板を打つ音を聽いた。

 十一日、午後十一時半頃、コールマン島の影が船の行手に現はれた。

 隊員船員は是非とも船を適當の個所へ寄せたいと思つたが、此附近一帶には非常なる流氷ある上、風は烈しく吹雪は起り、船を寄する事は頗る危險であるので遙か沖の方へと出た。

 翌十二日は。

 風益々烈しく、波愈々荒く、船の傾斜は二十五度乃至三十度を示して居る。

 是れ船足の浮ける爲め、傾斜が特に甚しいのである。

 此暴風怒濤は翌十三日に續き、更に猛烈なる吹雪を伴うて盛んに襲來したが、十四日に至つて探檢行動の將來に就いて幹部會議が開かれた。

 隊長、船長始めた隊中の重なる者皆列席の上學術室に於て會議が開かれた。

 議題の主なるものは、十一日來の東南風の爲め、船は今や南緯七十一度附近まで漂流せしめられて居るが、此處二三日天候囘復を待つて、豫定の如く、再び南緯七十三度まで引返し、コールマン島に上陸すべきや否やと云ふ事にあつた。

 所が今や石炭及水等が非常に缺乏し居る上、烈風濃霧も頻に來るので船が意外の危險に遭遇せずとも限らずと云ふ者あり。

 或は隊員、船員、共に頗る疲勞し、中には神經衰弱に罹り居る者もある故、此儘歸途に就くは止むを得ざる事なりと云ふ者もあつた。

 結局遂に評議は此儘歸航と云ふ事に決し。

 船長は直に帆走を開始して、進路を北北西に取り、再び襲來せる吹雪の中を進航した。

 此邊は羅針が微動して少なからず横に向ひ、往航の際非常に困却した場所である。

 磁極は南緯七十二度餘の地點にあるので、開南丸がコールマン島に達する二三晝夜前より磁針は絶えず微動して兩側へ二十度位づゝも往き、完全なる針路を取るに尠なからず困難した場所である。

 今や歸途に際しても、磁針の微動は同様だが、船の操縦者は餘程極地の航海に慣れた爲め不安の念が少ないのである。

 二月十六日。

 午前九時。

 左舷半哩の邊に、高さ五十呎、周圍二百間餘の盤狀氷山を見たが、更に同十一時三十分に至り、右舷四十間許りの海上に、高さ十五呎周圍五十間餘の異形の氷山を發見した。

 今後暫くは尙多くの氷山に遭遇する事であらう。

 二月十九日。

 午後十二時近き頃、日暈が現はれた。

 一同甲板上に立つて是を眺めたが、頗る美觀を呈した。

 二月二十二日に至り、氣溫著しく昻騰し、外氣既に三四度に昇つた。

 翌二十三日。

 午後三時頃。

 非常に大いなる一羽の帝王ペングイーン鳥何れより迷ひ來りけん頗る疲勞したる様子にて船側に來り、頻りに甲板上に飛上らうとして居る。

 淸水機關長最初之を發見し、ヤー〱と叫ぶ所に、續いて杉崎、釜田、兩水夫來合せ、力を協せて投網を被せた。

 するとペングイーンの首だけへは掛つたが、餘り舷側に近い爲め、遂に甘々と逃げられて終つたのは殘念であつた。

 二月二十五日。

 氣壓は急に斜角を爲して降つた。

 波強く、微雨更に降り來り何となく暴風の徴を呈した。

 と思ふと間もなく北西の暴風は、午後に至つて正西に轉じ、傾斜三十度。

 怒濤幾度となく甲板を洗ひ、船は爲めに少しく東方に流されたが、辛ふして此急激なる天候の怒りを避けて、幸ひに遅々たる速度ながらも進航を續けた。

 翌廿六日に至りても、怒濤は尙止まず、氣壓計益々下降し、總員は頗る不愉快なる状態にあつた。

 今や航路は新西蘭の東部、寒暖潮の相合する處として有名なる荒海に入つて居る。

 頃日來荒れ續きの爲めに、船は全く有名なる荒海に飛込んだのである。

 越ゑて二十八日に至るも暴風激浪は尙止まず。

 前日の西及び北西の風の爲めに船は少なからず流されて居る。

 船員は晝夜是等の風浪と闘つて居る。

 此暴風怒濤は三月一日午後に至つて漸く收り、二日は頗る平穏なる海上となつた。

 然るに其翌三日午前、西方より驟雨來り、一天暗雲に閉され四顧暗瞻なりしも、やがて雨歇み星光燦として輝き、始めて文明界に入りし心地がした。

 怒濤は遠慮なく空を拍つて白龍の縦横に驅馳する如く、空と海と相映發する壯觀は誠に壯絶凄絶であつた。

 今や船は南緯五十七度附近の海上に入つて居る。

 今五六日の後には第一寄航地と目指す新西蘭に到着する豫定である。

 三月四日、又もや激烈なる風波の爲めに、船は大傾斜を爲したが、翌五日に至るも同様風波荒らく、六日又同様、翌七日午後に至つて漸く風浪が收まつた。

 翌八日は終日、平和の天候であつたが、其翌九日に至り又もや、暴風襲來し、然かも風位頻りに變更し。

 船は爲めに或は南航し、或は西航し、若くは西北航すると云ふ風に、頗る航海難を感じたが、これも十日朝に至つて和いだのである。

 十九日。

 朝來船員、隊員一同は或は髪を刈り或は入浴を爲し。

 或は衣服を着更へ、其他行李などの整理を爲し頻りに立働いて居る。

 是は船が追々と新西蘭に近付いた爲めである。

 極地無人の郷に長らく生活して、身體の裝飾を閑却した連中が、此日の晝飯の食卓に就いたのを見ると、全く別人種になつた様な心地がした。

 翌二十日。

 午前十時。

 待ちに待つたる新西蘭南島の影を左上舷遙かに認めた。

 全員急に多忙を極めた。

 翌二十一日。

 午前。

 左舷五海里許りの處に、四分の一以上雪を戴だくルーカー山脈を認めた。

 十二時頃海豚群は船側に來襲し、甲板は銃を持つ射手の群に滿された。

 其結果一頭を銃殺したので、直に鈎を懸し網にて引上げ、豫て腕に覺えのある山邊、花守兩アイヌに執刀を托し、肉を取り皮は鹽漬とした。

 高川水夫の料理で肉を味噌料理として、味つたが、久しく生肉に饑えたる一行は、此海豚の肉に舌皷を打ち南極海豹の肉よりも更に美味なりと評し合つた。

 此海豚は長さ五尺に餘り皮の色も頗る美麗であつた。

 船は今日カイコーラ沿岸に沿ふて進航を續けて居る。

 翌二十二日。

 午前五時。

 右前方に北島のシーバリサーを認めたが、昨夜より北西の風にて進航を妨げられて居た船も、今夕中には灣内に入らんとして居る。

 翌二十三日。

 午前三時半。

 開南丸は長途の航海を終へ、久しぶりにてウエリントン港に錨を卸した。

 全員は最も多忙を極めた。

 朝來南東の疾風は細雨を伴ひて波が高い。

 午前九時水先案内船來り、檢疫所まで導かれて進む。

 十一時四十分檢疫を了し、檢疫官の好意により、尙棧橋五丁近くまて進む事を許された。

 其到着した時は丁度午後一時五分であつた。

 そこで檢疫官のランチを利用し、白瀬隊長、武田部長、池田學士、西川、村松の諸隊員は手別けをなし、或は領事館に赴く者もあり、又は電信局に赴く者もある。

 それ〱任務に就いた。

 三井所部長は山邊、花守兩アイヌを督して船内整理に從ふた。

 此朝は一般に上陸を禁ぜられてあつたが、夜に入つて一同上陸を許可された。

 で隊員は思ひ〱に市中に出掛けて其夜を過ごした。

 翌二十四日、相變らず市中見物に費したが、其間船には當市の領事館員、新聞記者などが續々と押掛けて來た。

 二十五日も同様、有志婦人連などの訪問を受けた。

 二十六日、朝來疾風に微雨を伴ひ、何となく不穏の天候である。

 昨今の大洋は兎角荒れ勝にて船より波止場迄の短艇も波高き爲め往還に屢々飛沫を受けた。

 二十七日も滞在した。

 翌二十八日、隊長は一先づ此處にて開南丸と袂を分ち、郵船にてシドニー經由、歸國の途に就く事になつた。

 其理由は、能ふべき丈速かに歸國して後援會を援助し船員給料、隊員手當等を作り置かんとするにある。

 此歸國人員中には武田學術部長、池田學士、田泉寫眞技師、安田木工等も加はつて居たが、前三者は、學術報告及活動映畫調製の必要より、後の一人は病氣保養の必要より歸る事と爲つたのである。

 滊船の都合にて前記數人の歸國はいよ〱三十日と決定した。

 翌二十九日。

 は副食物の買入等にて船は多忙を極め、其翌三十日は隊長以下の歸國日とて一同其準備に忙殺された。

 同一行の乘船はユニオン會社のアオレンヂ號であつた。

 出帆は午後十時三十分に行はれた。

 明れば三十一日。

 隊長其他不在となりしより、寢室の移轉等に終日を費し、又船長以下船員は明早朝出帆の爲め、其準備に取掛つた。

 所が翌四月一日に至り、尙一日滯在する事と爲り、二日出帆と變更した。

 軈て二日と爲ると近來稀なる快晴である。

 灣内殆ど油を流した如く、水禽が愉快さうに遊んで居る。

 港の内外には快走艇の群が漸々と多くなり、軈て、開南丸の周圍を取圍んで見物して居る。

 如何にも長閑な出帆日和である。

 正午に至つて愈々出帆の汽笛を鳴らした。

 此日は海上極めて穩かであつたが、翌三日に至り北西の風がソヨソヨ吹初めた。

 けれども幸に強風ともならず、四日も終日極めて長閑であつた。

 五日午後に至りポッ〱又不良の天候となつた。

 然し幸に船の進行を妨ぐる程ではなかつた。

 久し振りにて船は次第に進航して、早くも四月十四日となつた。

 今日は傾斜頗る烈しく、折々船側に打上げる激浪は、甲板に躍り上り凄まじき音を發して居る。

 風は南西位にして、船は北北西を指さし、五海里乃至六海里の速力で駃んで居る。

 時々刻々船は三年振の懷しき故郷に近附きつゝあると思へば、今尙三千九百餘海里の南方に漂ふて居る一行も、聊か意を慰むるに足るものがある。

 翌十五日。

 午前十一時頃より南方に大鳥の純白色を呈せる者一羽を見たが、翌十六日は烏賊の五寸許の物が甲板に飛込んだので、早速刺身にして食卓に上した。

 翌十七日。

 船は快く帆走して居る。

 船長は今宵若くは明拂曉は東經百七十度弱、南緯二十度十分の地點に在る佛領アネリウ島を見る筈であると言つた。

 で、船長初め見張りの船員等は、眼を放さず前方を注視して居る。

 然し今日は朝より霧深く、氣溫蒸熱く、濕度は九十度以上に至り、海上は一海里以上を透視する事も出來ぬので、甚遺憾であつた。

 翌十八日。

 午前六時、果して船長の言の如く彼の島を認めた。

 島は右舷一哩の距離にあつたが、依然として霧深き爲め三分の二以上の頂は見えない。

 然し其形状は鈍鋸齒狀をなすのを見ると、疑もなく是は火山岩より成れる島である事が知られた。

 十九日午前八時頃より、氣壓計は斜角を示したが、十一時四十分、七五三を示し暴風雨は間もなく來襲した。

 午後二時頃に至り異様なる音響が甲板上に響いたので、何物ならんと赴き見れば、帆桁が暴風の爲めに破碎したので、船員一同應急工事の作業をして居るのであつた。

 兩三日來の天候を危み夜も帶を解かず、唯海圖室にて、腰掛の儘、假睡中の船長も此物音に夢を覺し、今や必死に應急修理を爲しつゝある。

 昨今船室の溫度は華氏八十四度二分である。

 襯衣又は浴衣一枚にても尙蒸熱く覺える。

 四月二十一日、室内溫度華氏八十六度である。

 一同は昨今室内の餘りに暑きに窮し、甲板上に出て來りて凉を取り、睡に就くは、概ね午後十一時過ぎであつた。

 二十四日、船は南東の風を受けて快走して居る。

 速力四海里乃至五海里である。

 午後船長は海圖を示して一島嶼を指さし、是は佛領サンタクルース島である。

 島内には所々に部落あり、酋長ありとの事なるが、住民の性質不明なれば、迂濶に上陸は出來ぬと云ふた。

 之より以後海上は每日無事にて、船は只豫定の航路を豫定の速力を以て進航しつゝあるのみである。

 五月一日は來つた。

 此日猛烈なる驟雨が來たので、隊船員は皆裸體になつて甲板上で水浴を試みて居た。

 六頭の犬も久しく洗滌しないので積れる南極の垢を洗落して吳れて居た。

 然るに突然霹靂一聲耳を劈き眼を射る如き雷鳴が起つたので、一同思はず臍を抱へて室内に馳込んだ。

 尤も船には不完全ながら避雷針の設備もあるが、數回に渉り電光雷鳴の凄じきには少なからず一同喫驚した。

 今朝より西南の輕風吹來り、船は遅々として帆走して居る。

 回顧すれば去年の今日は恰もシドニー、ジャックソン灣入港の記念日であるから多少の感慨なきを得ない。

 日は近來にない好い凪であつた。

 翌二日は東の輕風であるのと潮流等の關係で、船は殆と現位置を保つて居る。

 帆船の身に取つては近來の如く風力の尠いのには困る。

 日沒より南南東の方位に當り、奇怪なる黑雲起り。

 軈て驟雨の來襲となつたが、二時に至り、雲忽ち散じ
た。

 此日午後四時、三尺ばかりのレーラー魚四五尾宛各々群をなして、船側に現れたので大勢の者は、或は銛、或は釣針などを持出して、百性一揆の如く騷立つた。

 然し何物も獲なかつた。

 廿二日。

 午後一時十分『船だ〱』と叫ぶ聲が甲板に聞える。

 一同何事ならんと出て見ると、遙か北方の水平線上に、何物かが黑烟を吐きつゝ往く。

 船長は、『あれはマリアナ群島方面に赴く定期船であらう』と言つた。

 海上で船に遇ふ事は尋常茶飯の事ながら、水や空なる渺茫たる海上に何一つ眼を遮ぎるものもなき時にあつては、平凡なる汽船の影も一つの慰みである。

 爾來無事の航海を續けて六月四日となつた。

 船は北北東の風を受け、東方に向つて汽帆兩走を續け、午前十時、小笠原群島の母島、外二三の島嶼を七哩許り左舷に見て進航して居る。

 午後に至り母島は益々眼界に近づき來り、西の方に手に取る如く見える。

 明朝此島に寄るべき由を語りつゝ船長は船員を獎勵して居る。

 其中に父島も遙に現れた。

 母島と父島の間は、十八海里である。

 翌五日。

 午前七時父島と開南丸とは三哩許りの距離となつた。

 斯くて次第に徐行を續け、遂に午前十一時四十五分、二見港内に投錨した。

 午後一時半檢疫を終り、第二虎丸に導かれて、それ〱部署を分け、上陸して、島廰に往く者もあり、買物に往く者もあり、中〱の多忙であつた。

 夜半頃より二回驟雨來襲したが、久方振りに上陸して睡眠し、非常な安眠を貪り得た者もあつた。

 翌六日は雨であつたが、小笠原島靑年會の代表者並に、同島小學校長職員等來船し、盛に謝辭を述べし上、探檢隊の萬歳を三唱して呉れた。

 此日は雨中ながら上陸を試み、熱帶果實の新鮮なるを味ひ、一同は絶えて久しき野菜の缺乏を補ひ得たので胃腑は、大に滿足を表した。

 翌七日は船長並に隊員、船員、一同、同島の有志者より招かれて扇ヶ浦の小學校に赴き、南極探檢の講話を爲せし上、同島有志者主催の歡迎會に出席して各自十二分の歡を盡した。

 翌八日も又講話若くは港内の見物に費された。

 九日の午前十時愈々此島を出帆する事と爲つた。

 同島の有志は、三艘の船を艤して送つて呉れたが、此日は風位の爲め竟に出帆を翌朝まで延期することゝなつた。

 明れば十日午前八時十分。

 漸く眞に出帆し得る事となつた。

 其時濱邊には小學校の職員生徒、島廰の吏員、有志等數百人數旒の旗を押立て整列し、一齊に開南丸の萬歳を祝した。

 開南丸は汽笛を以て之に答禮し徐々と港口に向つて進んだ。

 萬歳の聲は尙止まぬ。

 斯くて船は進んで正午過ぐる頃島を離れたが、夕刻には父島より約四十海里、兄島を東五海里許りに見る地位にまで到達した。

 夕刻よりは風が凪だので船が殆ど現位地を離れない。

 此時は西北の微風であつたが、十一日漸く西西北に轉じ兄弟島の中央二哩附近の處を通過した。

 此頃より風位の爲め汽走を開始した。

 十二日。

 東南風吹き、午後より氣壓計少しく下り始めた。

 バラ〱と微雨降り、軈て風位は正東に轉じ、更に東北に轉じ船は傾斜甚しく、天候頗る危ぶまれた。

 然し十三日に至り風位變じ拂曉より一天名殘りなく睛れて、東並に東北の風に送られて駛走して居る。

 然し全體から云へば船の進航が餘り捗々しくない。

 朝七時。

 七八哩の前方に鳥島を見たが夕刻には東方約四哩許りの地點に之を見た。

 翌十四日も依然として船は進まない。

 漸く鳥島が四五哩許り後方に見える位地に進んだに過ぎぬ。

 其頃より全體の船員はペンキ塗替、其他の裝飾に着手した。

 元來鳥島は岩石を以て蔽はれし島にて海岸は頗る險阻なる斷崖である、其斷崖より赤褐色の土質が見えて居る。

 西側は頂上より海面まで草木なき禿地であるか、是は重に前年噴火の際溶岩を流した痕跡のやうである。

 十五日矢張り東の輕風で靑ヶ島を望んで進んだが、夕刻同島を東一哩の方向に眺めた。

 熟視するに此島は全島殆ど草木を以て蔽はれ、宛然靑毛氈を敷詰めたやうである。

 靑ヶ島の名は之から起つたものであらう。

 唯西方の一部が開拓されないだけで、其他は草木が井然として栽培されて居るやうに見える。

 人家も其間に點在して居る。

 夕刻より一天俄に搔曇つた。

 今迄鮮かに眺められて居た靑ヶ島は南方の雲に鎖されて終い。

 唯左方に八丈島の三原山、西山、小島等が微かに靑黛色を呈して、北方の雲上に聳えて居るだけである。

 十六日は南東の輕風である。

 昨夕八丈島が八哩許りの東にあつたが、此方位には今や御倉島が恰も盆に載せた餅の如き形をなして見えて居る。

 午後四時半より三宅島を右に、新島を左に各々呼べば應へん許りの距離に見て進んだ。

 午後六時此處を通過した。

 前方には雨中の大島が朦朧として見えて居る。

 今日は午後四時頃より降雨と爲り、夜に入つては盛に降り頻つて居る。

 午後八時十分、船は猛雨の爲めに大島沖を通過することが出來ないので、一旦船首を同島の東南隅に向け、内海から通過することに定め、而して同九時、針路を西南西に轉じた。

 此夜密雲天を鎖し、細雨肅々として降頻り、黑白も分かぬ眞の闇である。

 斯かる時、航海上唯一の賴みは燈臺であるが、其生命とする燈臺の光は更に見えぬ。

 爲めに船員の苦心は一ト通りではない。

 明くれば十七日、午前六時頃、甲板は俄かに騷々しいので、總員は急遽として驅付けた。

 見ると、右舷密雲の隙に現はれ居るのは、正しく沿岸である。

 併しそれは島嶼であるか陸地であるかゞ不明である。

 而して其一方は灣形を示し、其灣邊に二三の黑影、それが人の影の如く見えて居るが、何分遠望であるから何うも判然しない。

 今海上は、山陰の爲め無風なるのみならず、三角波頗る高く、推進機は、ともすれば、空轉する。

 斯くて船體は、刻一刻波に揉まれ、沿岸の方へと運び込まれやうとする。

 即ち船體の危險は、次第〱に急を告げるやうになつて來た。

 此時船長は、最早避難の策盡きたりと見て取り、火急に投錨の準備を整へしめた。

 太き錨綱は、何十尋となく錨の傍に束ねられてある。

 開南丸の運命は最早寸秒の間に決せられやうとした時、其刹那!天公未だ我を見棄てず、神風とも云はんか、今までの無風に引變へ、一脈の微風は忽然として吹き起つた。

 『ソレ帆だッ〱』と、船員は急に活氣付き、直ちに帆を張り、同時に之に應じて汽鑵は全速力を出し、こゝに帆力と汽力との有らん限りを盡し、遂に二時間の惡戰苦闘を經て、辛ふじて船體坐礁の危難を免かるゝ事を得た。

 全く九死に一生を得た次第である。

 斯くて、船は沖合に出たが、漂流すること約十時間に亘り、漸く深霧の中に、一髪の陸影を認め得た。

 之は伊豆の東岸であると認定せられたが確定が出來ずに半信半疑の處へ、宛も午後六時二十分に至り、懐かしき山頂―それは三年振に見る富嶽の絶頂―を天半に仰いだので、之れで始めて凡ての位置を確然と知ることが出來た。

 後にて船長の發表せる調査報告によると、今朝危險に遭遇したる彼の地點は、伊豆の稲取岬であつた。

 それにより一同は、扨ては前夜闇中の航海に於て、潮流の爲めに流されたのであつたかと、今更の如く竦然とした。

 船は進航中ではあるが、海霧密にして、船首の位置も判明せず、寔に寒心の至りで、船長殆め船員等は、窃かに眉を蹙めて、不安の前進を續けて居るうち、午後三時半に至り『島だッ〱』と叫ぶ聲に、一同蘇生の思を爲した。

 此れは即ち上記の伊豆東岸であつたのである。

 此日氣壓計の最低度は、午前九時半の七百五十三粍で、仝十二時頃より少しく恢復の兆を示した。

 而して午後六時に至り、風のみは和らいだ。

 唯だ波浪は依然として荒れ狂うて居る。

 翌十八日に至り、前日來の暴風怒濤は、大に平穏に歸し、曇天ながら時折日光は雲間を洩れた。

 今朝船は大島を東方に近く見、相模の陸影を西方に遠望しつ、館山港に向ひ、汽帆兩走を以て急航して居る。

 併し生憎の逆風なので、船は已むなく連針航法を執つて、午後四時十五分、漸く館山灣外の鷹島附近に投錨した。

 だが何分檢疫未了の爲め上陸を許されず、唯だ船長と、館山出身の藤平機關士との二名のみ、上陸の特許を得た。

 此時陸上より、堀内事務長は後援會代表者として出迎へ、武田部長は、隊長代理として出迎へ、其他出迎人は、北條町有志、澤安房郡長、加藤北條町長其他であつた。

 翌十九日、東方の微風は追手であるが、三海里の汽走とて、殆ど帆の用を爲さぬ、午前九時船長歸船するや、間もなく抜錨に際し、陸上より訪問者相次いで至り、互に一別來の健康を祝し合ふうち、定刻となつたので、汽笛一聲船は、横濱港指して進航したのは、午前九時三十分であつた。

 此際、仝灣碇泊中の「第一報効丸」より、萬歳は叫び出された。

 開南丸と此船とは、以前報効義會の姉妹船であつたので、非情の船舶も心あらば感慨を催ふした事であらう。

 午前十一時五十二分、港口を出でんとする時、軍艦鞍馬の檣頭に、信號を掲揚した。

 船より望遠鏡を透して凝視したが、風弱き爲め旗布垂下し、其信號判明せず、斯くと知りたる鞍馬は、態々船に近づいて迂回し、總員登舷して帽子を打振り、勇ましき萬歳の聲を浴びせた。

 午後一時十分、觀音岬の燈臺より、「汝は運び得るや」の信號旗は掲揚せられた。

 此時逆流頗る強く、進航遅々として居たのである。

 仝燈臺よりは、次いで再び信號旗を掲げた。

 其文字は、「汝の成功を祝す」と云ふのであつた。

 開南丸の着陸が遅いので、之に先だつ數日前より後援會幹事村上濁浪氏は、横濱の西村旅館に出張して待つて居たが、丁末倶樂部の寺田四郎、粟山博、加藤正人、猪毛利榮、都筑懋鎮、の諸氏も又來つて大に斡旋する所があつた。

 然るに今や開南丸は無事館山に到着して、本日横濱へ入港と確定したので、午後四時艀に乘つて迎へに出た。

 田中捨身佐々木照山等の後援會幹事も又港務部の汽船に乘つて迎へに出た。

 午後四時三十分、開南丸の英姿は堂々波を切つて、港内に入り來つた。

 檣頭高く探檢旗と日章旗とを翻しつゝ入り來つた。

 萬歳萬歳の聲は海を動かして起る。

 波止場は皆人を以て埋まり、其人々の口よりも雷の如き萬歳の聲は叫び出された。

 午後六時、船は港内第一區に投錨し一行悉く西村旅館に入つた。

 茲には野村夫人、土屋夫人、東京各新聞記者諸氏等も居て絶えて久しき對面に互に無事を祝し合つた。

 探檢勇士の面上には一種言ひ知られぬ喜悦の情が動いて居た。

 出迎者の顏にも無論滿足の念が漲つて居た。

 軈て、十九日は暮れて、廿日の朝は來た。

 此日は愈々芝浦埋立地に於て歡迎の式を行ふ日である。

 午前十時開南丸は徐ろに碇を捲いて横濱新港を出帆した。

 日本郵船會社の汽艇は防波堤まで見送り呉れた。

 此時恰も汽船春日丸は歐州に向つて同港を抜錨する時であつたが此偉大なる使命を果せし開南丸が同船に近く進みし時、同船の甲板上には身に綾羅を纏へる美人が數名現はれて此方に向ひ紅のハンカチを打振り萬歳を唱へて呉れた。

 斯くて開南丸は南十字星の探檢旗を折からの朝風に翻しつゝ懐しき東京の天を指して進行した。

 船中には、佐々木、田中、村上等の諸幹事及び此事業に最も同情厚き東京其他の新聞記者諸士が乘つて居たが談は知らず〱一昨年十一月出發の際の事に及んで、最も痛快に當時の事を談論して居た。

 軈て甲板上では南極圈まで往復せしと云ふ米の饗應があつて。

 同上の注釋附の牛肉鑵詰、鯛味噌等の馳走があつた。

 一同不味いながら舌鼓を打つて食ふた。

 軈て羽田の沖に達するや、滊艇一隻矢の如く進行し來り、紅白の旗を打振り開南丸の安着を祝すと信號した。

 之は水上署の快進丸であつた。

 第三臺場の傍より十二の櫂を有するカッターは勢鋭く此方に向つて、漕ぎ寄せた。

 萬歳の聲は海に響いて、時ならざるに鷗を驚かした。

 之は是れ商船學校の生徒である。

 軈て又早稲田大學の歡迎船來り。

 水難救濟會の歡迎船、攻玉社の歡迎船、其他數十隻の歡迎船が來つて各々萬歳を絶叫して呉れた。

 やがて芝浦埋立地なる歡迎式場の前に到れば、ズトンと一發勇ましき音が空に聽へて美事なる煙火は一行が無事の到着を祝した。

 それと同時に船は陸岸を距る五間位の地に碇を卸した。

 三井所衛生部長はウエリントンより品川灣まで隊長代理として、開南丸に留まりし關係より、幾多の苦闘に色も褪せし探檢旗を先頭に、陸上隊員を引率して上陸した。

 之に續いて野村船長は百折不撓の面貌に喜悦の情は掩はんとして掩ふ能はず、高級部員及船員等を引率して上陸した。

 雲か霞か、人を以て埋みし幾萬の群集より萬歳の聲は百雷の一時に落つるが如く地を搖かして起つた。

 南極探檢後援會長大隈伯は是等の群衆に擁されつゝ此處に出迎へ居られたが、一行の無事歸り來るを見て喜悦の情禁ずる能はず、其不自由なる體軀を運んで熱心なる握手を與へた。

 野村船長、三井所衛生部長、其他一同歡極まつて覺えず涙を垂れた。

 其中に又も萬歳〱の聲は起つた。

 軈て一同高く設けられたる式場に向へば、同所には肝付中將、頭山滿氏、徳永博士、及後援會幹事、三宅雪嶺、押川方義の諸氏も集まり一行を待つて居る。

 群衆中特に目を惹きしは早稲田、慶應、明治、日本、中央、法政、の各大學生、攻玉社、高、輪、芝、錦城等の各中學生、一萬有餘の列であつたが、今一行の場に上るを見るや手に手に南星の小旗を打振り聲勇ましく探檢隊歡迎の歌を謠つた。

 蠻音を帶びじ其聲は、本邦男兒の意氣を表はして壯烈鬼神を泣かしむるに足るものがあつた。

 一同席に着くや大隈伯は立つて群衆に演説した。

 『國民が久しく憂慮したりし我が探檢隊も兎に角大略の目的を遂げて歸國した。

 此擧たる當初に於ては尠からず世人の嘲笑も買つたが僅々二百四噸の小船を以て海路三萬哩の大航海を遂げ、船として達し得べき最南の地點まで達し、氷海の航海に於て少からざる經驗を得て歸つて來たと云ふことは日本航海史上に特筆大書すべき事であると共に陸上に於ては鯨灣と、エドワード七世州との兩所より上陸し能ふべき丈の探檢を遂げ歸つて來たと云ふ事は我國の歴史に於ては嘗て無かつた極地探檢なる事を爲し得たもので誠に喜ばなくてはならない事である。

 殊に此遠征たる一人の生命をも損せず無事此處に歸着し得たと云ふ事は實に人間の體力と精神力との偉大なるを示すもので、事の茲に到りしについては誠に此事業に同情し呉れし日本全國民に向つて感謝せねばならぬ次第である』と演べ少ならず群衆を感動せしめた。

 之に續いて三宅雪嶺、田中舎身、村上濁浪、佐々木照山、粟山博諸氏の演説あり、最後に白瀬隊長、野村船長等の答辭があつた。

 斯くて大隈伯の發聲で天皇陛下の萬歳を三唱し數萬の群衆は之に和し歡呼聲裡に式を閉ぢた。

 それより隊長、船長等は隊員船員一同を率ゐて、二重橋外に至り整列して最敬禮を行ふた。

 隊長は此時恭しく奉告文を朗讀した。

 時正に午後五時半であつたが、此時一方では粟山丁末倶樂部幹事の斡旋で提灯行列が催された。

 集るものは早稲田大學、中央大學、法政大學、明治大學、早稲田中學其他の五六校で午後六時より續々日比谷公園に集り、準備せし五千五百個の赤提灯は日比谷公園の空に映じて美しく、其れに從ふものは無慮一萬餘人、探檢隊歡迎の歌を謠つて練り出した。

 向ふ所は二重橋外の大廣場である、同所に着するや學生群衆は恭しく其所に整列して提灯指揚げ謹んで天皇陛下、皇后陛下の萬歳を三唱し奉つた。

 其聲雲の上にも達せしにや、今まで點じあらざりし二重橋外の大アーク燈點せられ忽ち秋夜の名月の如く照り輝いた。

 一同は深く大御心に感涙を流しつゝ最敬禮の後、順路鍛治橋疊町新道路を經て京橋電車通りを進み行く。

 折柄降り出せし雨は探檢歌を謠ひつゝ進む此一行を少からす惱ましたが、それにも屈せず、提灯差揚げ雨を衝いて進行する光景は最も勇しきものがあつた。

 行列は軈て日本橋、今川橋を通り須田町、廣瀬中佐銅像の前まで來たが此處にて一同勇ましく萬歳を唱へて解散した。

 翌廿一日は、白瀬隊長、野村船長等隊員、船員一同と共に大隈邸を訪ふて無事歸朝報告の式を擧げた。

 三宅、田中、村上、佐々木等の諸幹事も參集した。

 此時伯爵は既往滿二年間に於ける非常なる苦辛は昨日の國民的大歡迎に因つて報ひられたる感がある。

 國民も此事業によつて、探檢の眞価を了解するに至りしは喜ばしきことなり、只今後に望む處は更に奮勵努力して有終の美を濟すに努むべきであると述べ、田中舎身氏は人間は逆境の時は過失少くして順境の際は反つて過失多し、今日の盛名が持續するや否やは諸君が今後順境に處する心掛の如何によつて決す、深く身を慎みて名を汚す勿れと訓戒した。

 白瀬隊長は誓つて伯爵閣下と田中幹事等の訓戒に背かざるべき由を述べて答辭とした。

 此時伯爵夫人は此席に入り來られた。

 すると隊長等は出發の際賜はりし御守及びチョッキ等に就きて深謝せしに、夫人も喜びの顏色を以て一同に對せられ、之より各神佛に御禮詣りに往くつもりですと語られた。

 此席へは樺太アイヌ花守新吉山邊安之助等も列して居たが、花守は大きなる手に南極鷹の片羽を新聞紙に包みたるを持ち之は自分が極地にて得たるものなればとて恭しく伯爵夫人に贈呈した。

 夫人は限りなく此無邪氣なる贈物を喜んで受納せられた。

 軈て庭内に於て記念撮影後伯爵の萬歳を唱へて散會した。

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