南極記デジタル書籍紹介

南極記:第七章 最初の探檢(原文)

 抑も南極探檢の事業が普く社會に紹介されたのは、實に明治四十三年七月五日錦輝館に於て發表演説會を開いた時に淵源するのである。

 其の詳細は卷末に附した南極探檢後援會の經過に述べてあるから、茲には略すが兎に角、此前古未曾有の事業は白瀬中尉が再三の懇請に因り、同事業の爲め錦輝館に於て發表演説會を開き、田中弘之、佐々木安五郎、櫻井熊太郎、押川方義、三宅雄二郎、の五氏は後援會幹事に村上俊藏氏は同専任幹事に任じ、大隈伯爵は、南極探檢後援會長の位置に就き白瀬矗氏探檢隊長に任じ、始められたのである。

 其より後、滿天下幾多新聞社の同情、朝日新聞社の募金上に於ける盡力等に依りて急速力を以て發達したのである。

 最初用船問題に就きて幾多の苦心を甞むるも得る所なかりしが竟に郡司大尉より第二報効丸を買入れ(東郷大將之に開南丸と命名す)之を用ゆる事と爲り、十一月末を以て出發し得るまでの運びに至つたのである。

 之より前、探檢隊の支部を深川區熊井町に設け、白瀬中尉は此處にありて、隊員の募集携帶品の買入等に從事して居たが、之が狭隘を感じたので、更に芝區なる芝浦埋立地に移つて盛んに出發準備を急いで居た。

 用船の修繕工事も濟んで愈々出發の期日も決定したが、其決定した出發期日は十一月二十八日である。

 十一月二十六日正午より後援會長大隈伯の厚意に因り早稲田の伯邸に於て、南極探檢隊員一同の告別式が行はれた。

 白瀬中尉以下之に赴いた。

 式場は庭園に面せし日本室の大廣間、玄關前で告別記念の撮影を終ると直に式は開始された。

 隊長は陸軍中尉の制服であるが他の隊員は新しい制服制帽である。

 二人のアイヌ人が偉大なる體格だけに一番目立つて立派に見える。

 一同の席が定まると、大隈伯は令夫人綾子女史を隊員に紹介された。

 夫人は鬼とも取組み兼ねまじき面構への連中に向つて溫情籠る送別の辭を述べて後、豫て用意せし三崎稲荷の守札を縫込みたる眞綿のチョッキを渡された。

 伯爵は續いて松木男爵より特に依賴し來りし伊勢太神宮の神御衣の守札を一同に手渡された。

 今度は夫人がスル〱と各隊員の前に進み朱塗の木杯に滿々と酌をされた。

 流石頑健無類な隊員も、伯爵夫人自らの厚き待遇に感激したが、鐵の如き手に支へ持つ其木杯がブル〱と震ふた。

 中にも二人のアイヌ人は生れて始めて祖國の貴婦人に接して、而も手づからの酌に驚き恐れて、さらぬだに大きい兩眼をキョロ〱させて居たが、感極まつてかハラ〱と落涙した。

 此アイヌの感涙を見たる滿堂何れも引き入れられてか、密かにハンケチを取り出す人もあつた。

 殊に血氣盛りの丁未倶樂部學生諸士は悲壯の光景に胸迫つて顏を背けて居た。

 斯くて伯爵は一同へ向つて一場の訓示的告別の辭を餞し白瀬隊長答辭を述べ、萬歳聲裡に式を了つた。

 之より日比谷公園に催さるゝ送別式があるので、一行は名殘り惜しくも、直に伯邸を辭し去つた。

 同日午後三時、日比谷公園音樂堂前式場に於て、熱烈なる國民的送別會は催された。

 大隈伯爵邸を辭したる一行は、此處へ直行したのだ。

 見渡す所音樂堂の前には南面して式場が設けられ、靑々たる杉葉、紅白の慢幕が小春日和の柔らかな日光に輝り榮えて、見るからに平和な此の式場も、愈々三時の開會と共に悲壯の凄氣に滿された。

 隊員は白瀬中尉を前にして廿七名、ズラリと式場の正面に腰を下す、待焦れた群集は一時に『萬歳!』と動搖めき渡る。

 後の方からは『ヤー素敵だ、豪いぞッ』と一行の新しい制服制帽姿を祝ふ蠻聲も響く。

 一同の席が定まると佐々木照山君の巨軀が壇上に現れ、例の蠻聲一番『諸君!一行が此度出發せんとする廿八日は恰もマゼランが太平洋を横斷した首途の日である。

 此目出度い日に吾が白瀬中尉以下の壯擧を送るのは實に幸先きが好いではないか』と吼ゆるが如き開會の辭を了れば今度は、五分間の飛入演説を許した處、忽ち登壇したのは早大の稲田直道日本力行會の南波秀雄等の靑年諸士で何れも熱烈悲壯の氣を吐いた。

 之が終ると、次は小川運平、田中舎身の二君が萬丈の氣焰を吐いて此行を壯にする、其次に一風變つた人物が現はれたと思ふと、之は魚河岸に今一心太助と謳はるゝ名物男、坪野房次郎と云ふ江戸ッ兒である。

 今一心太助は五つ紋の袖を捲り〱小氣味好い江戸ッ兒式の氣焰を吐いて壇を下つた。

 夫から幾人かの演説あつて後、午後四時三宅博士は會長大隈伯の代理として南極に埋沒して歸るべき銅箱と、極地の天に翻すべき日章旗と探檢旗とを白瀬隊長に渡す。

 銅箱は一尺五寸に八寸位の堅固なもので、中には義金者の姓名を記入した物を入れてあるのだ。

 二旒の大旗が群集に向つてバッと廣げらるゝと萬歳々々と、さらぬだに熱狂した人々は喚呼狂奔する。

 伯爵の告別の辭は、櫻井熊太郎氏が讀上げた。

 白瀬中尉は答辭を讀んだ。

 隊員も群集も來賓も一種悲壯の感慨に打たれて謹聽した。

 夕陽の光りは物凄く此光景を斜に射て、熱したる人々の顏には送る者にも送らるゝ者にも一種の相關聯したる感情が脈々と相通つて居る様に思はれた。

 越ゑて二十八日午前七時隊員一同は凛然として歩武粛々、白瀬隊長に率ゐられて丸の内二重橋前に伺候した。

 先づ整列して恭しく最敬禮を終ると、隊長白瀬中尉は列を離れて三歩を進み、奉告文を捧げて朗讀した。

 臣白瀬矗誠恐誠惶頓首百拜して今上陛下の闕下に伏奏し奉る臣矗
茲に今日を期し南極探檢の途に就かんとし今や一行の部下を率ゐて
今上陛下の闕下を辭するに當り一は以て鴻大無邊なる聖恩を謹謝し
奉り一は以て臣等一行の素志を貫徹せん事を誓ひ奉らんとす今上
陛下克く臣等の微衷を嘉納し給はらん事を誠恐誠惶頓首百拜して白す

豫備陸軍輜重兵中尉從七位勲六等 白 瀬 矗

 言々句々悲愴を極めた。

 やがて白瀬中尉が奉告文をすら〱と捲いて懐に納めた時一同は二度三度宮城を伏拜みて底徊去り難き狀健氣にも轉た涙を催さしむるものがあつた。

 同日午後一時から後援會其他有志主催の送別式は芝浦埋立地に開かれた。

 式場の入口なる芝橋には、紅白の布を以て包める大門を作り鉤玄闡幽の額を掲げ兩方の柱には、推倒一世之智勇。

 開拓萬古之心胸と大書し、場は大天幕を張つて人を入れ、其前に高壇を設けて、隊員來賓新聞記者等の席に充て數百旒の萬國々旗は潮風に翻り、沖合遙かに日章旗と探檢隊旗とを掲げたる白塗りの開南丸は待遠しさうに浮かんで居る。

 やがて午後一時半、専任幹事村上濁浪氏幹事一同を代表して開會の辭を述べ、各新聞社を初め國民の熱誠なる同情を謝し、東京藥學校長は、同校出身の三井所氏に送別の辭を呈し、其他早稲田、明治、中央商業の代表者等、皆熱心に一行を勵まし、大隈伯は拍手の中に立つて、此有史以來の大遠征は先人未發の秘密を露くものなるが、宜しく空砲でなく實彈を發射すべしと快辧を揮ひ、又前南禪寺派管長勝峯大徹和尙は八十三歳の老軀を運んで一行が船中の安全を祈る爲め、大般若經轉讀のお守を授け、次に白瀬隊長は吾等一行は天神地祗の冥護に依り、四十五年の六月か七月には間違なく此品川灣に歸帆し得べしと信ずと述べ、後に佐々木照山氏は白瀬中尉一行が血判の誓書を示し、諸君是を見よ〱と絶叫して悲壯なる一場の演説をした。

 其他福本日南、嘉悦孝子女史等演壇に立ち、終に大隈伯の音頭で陛下の萬歳を三唱し、三宅博士に依つて南極探檢隊の萬歳は唱へられ、之れにて閉會となつた。

 式場には白瀬中尉夫人安子、長女文子列席し、尙ほ大木伯、伊澤修二、頭山滿の諸氏を初め、野村船長の紹介者なる秀島海軍大佐矢島船長等も來會して居た。

 送別の式が終ると、隊長白瀬中尉以下二十七名の一行は、大隈伯爵を中央に擁し、後援會幹事諸士に圍まれ、南極星を染出したる小旗を打振る數萬の學生團に取卷かれて乘船場たるロセッタ棧橋の附近へ來ると、此處には一行を本船へ送るべき大傳馬船を始め、其他二十餘隻の各團體の見送船が居て、國旗彩旗美しく飾り立て、中尉の乘船には福寶堂寄附の樂隊樂手を早めて頻りに行を壯にした。

 軈て一行は岸頭に整列して茲に見送者に對して最後の訣別の挨拶を述べ、傳馬船へと乘移つた、と見た船夫は直ぐに繋綱を解くと、傳馬船はスル〱と岸を離れた。

 樂隊の奏樂水上に起れば、天上には數發の烟火打揚げられ、其隙に陸岸數萬の見送人が、一齊に旗を振つて、フレ〱白瀬!を絶叫する、捧ぐる帽子、打振る旗數、群集監督の警部は正に五萬人以上だと語つたのに見ても其盛况以て知るべしであらう。

 此間白瀬隊長は一齊に唱ふる萬歳の聲する方に脱帽の答禮をなし、最後の挨拶に忙しい。

 傳馬船は次第に岸から沖へ出やうとする、そこへ競ふて端艇で艚ぎ寄せ來る大學生等は、中尉を圍んで記念の筆蹟を
乞ふ、中尉は乞はれて一々書き與へる其文字は何れも己が決心を示す者ならぬはない。

 曰く堅忍不抜、曰く百折不撓、曰く千挫不屈、曰く開南萬里、曰く何、曰く何、かくて暮色何時しか海上を包んで、四顧暗憺たる光景となつた。

 之より前、開南丸は芝浦埋立地を距る數町の沖合に繋がれて居たが、潮の關係上長く留まる事が出事ないので、午後四時半頃、臺場外へ出て往つて、そこへ碇泊した。

 一行を乘せた傳馬船は之を目がけて來るのだが、何分荷積の都合も二十八日中には充分運ばなかつたので、已むなく、此日の出發は中止し廿九日に出帆する事とした。

 翌くれば、十一月二十九日。

 此日一天晴渡り誰言ふとなく『探檢日和』と叫ばれた。

 白瀬中尉を始め後援會幹事新聞記者其他隊員の近親、有志見送人等を乘せた艀艇は、午前十一時ロセッタの棧橋側から纜を解いて本船に向つた。

 岸を離ると、萬歳の聲を陸上と船中から迭みに交はしつゝ、波を蹶て一哩餘の沖合に假泊せる開南丸の舷側に達し、爰でも一頻り萬歳を絶叫しつゝ本船に乘移り、少時の程は見送る者も見送らるゝ者も盡きぬ名殘を惜んだが一行の意氣は天をも衝かんばかりで、希望の色は其面上に輝き渡つた。

 斯くて出發の時刻も迫り、正午となるや見送人の一部は再び元の艀艇に乘移り綿々として盡ざる名殘の情を包みつ本船を去る。

 開南丸後部の錨鎖は忽ちにして數人の船員に依てキリ〱と捲揚げられ、午後零時二十分開南丸は黑烟を揚げて徐ろに動き初め、艀艇と本船とは刻々に遠ざかつた。

 船名を示せる萬國信號旗エルエフピーエム、南十字星を描出せる探檢隊旗及び船籍の儀表たる爛々たる日章旗は開南丸の檣頭高く飜へる。

 此時水上署の八重洲丸から、貴艦の成功を祈ると別れの信號をして呉れたので、開南丸は好意を謝する信號を返し、斯くて羽田沖に差し蒐るや、第五辰丸に遭遇し、謹で成功を祈るとの信號を受けたので、之にも好意を謝すと答へつつ船は進んで横濱港外に達した。

 間もなく同港を出帆したのは午後五時頃であつた。

 船が横濱港外に出ると、其處に碇泊して居た巨艦がある。

 それは軍艦津輕である。

 我が船が其舷側を通過するや。

 一聲の喇叭は劉亮として響いた。

 それと共に艦員全部は舷上に整列し、我が船に向つて萬歳を三呼した。

 我船では隊長白瀬中尉が出て之に答禮し、且つ一同萬歳!を絶叫した。

 夫れから本牧沖を通過すると、横濱英國領事館員は本船の前途を祝せんと小蒸滊を疾走し來つたので、速力を緩めて館員を迎へ、其祝詞を受け、斯くて靜かなる鏡の如き海を南東を指して進んだが、夕陽正に沒せんとする際、遙に西の空に當つて神々しき富士の姿が見られた。

 一同は之を見て喜び、富士は是本邦秀麗の氣の化して山と爲りし物、我等が前途を祝福するの佳瑞なりと勇み立つた。

 萬歳!の聲は又も海波を搖かして起る。

 斯くて機關の音滑かに砥の如き海上を進んで往くと數時間の後無事館山灣に到着した。

 時正に夜十一時三十五分である。

 此地は遠征勇士と見送人との告別の場所である。

 眺むれば鏡ヶ浦波靜にして、星斗の影を宿し風肅々として別離の情切なり、今別れては何れの時にか又相見ん、誠に生別死別を兼ぬるの思ひがある。

 『願くは健康にして萬里の遠征を遂げよ』『一意只進んで目的を貫徹せられよ』一語は一語より沈痛である。

 熱せる手は熱せる手と握り合ひ、涙は落ちて兩者の頬を傳ふ。

 『さらば』とばかり一同は舷を下り去らんとする。

 外面暗黑、咫尺を辧せざるの有様である。

 隊長は燭を執つて階段の上に立つた。

 火光はポット赤く照して兩者の頬を染めた。

 仰ぎ見て又『さらば!』。

 兩者は漸く相別れた。

 此時何者の奏しけん一聲裂帛悲しき尺八の音は起つた。

 此音悲壯萬里遠征を送るの人をして膓爲めに寸斷せしむるの思ひがある。

 軈て岸邊に達せし時紙片に火を點じて飛ばすものがあつた。

 其狀花火の揚るに似て、暗中に一道の光明を示した。

 船中の者は之を見て萬歳を叫んだ。

 見送の者又岸にあつて萬歳を連呼した。

 其聲海に響いて暫くは鳴りも止まなんだが、竟に鳥羽玉の暗の海に消えて終つた。

 翌くれば三十日午前五時開南丸は、汽笛一聲館山灣を解繿し、同六時灣内大賀村沖に一先づ投錨の上、貨物短艇等の整理に着手した。

 それが終了すると直ちに出發の豫定であつたが、天候頗る險惡の狀を呈したので、遺憾ながらも午後三時十二分、再び館山港に引返して投錨した。

 處が天候は、翌一日に至るも依然として不良で北位の強風吹き荒み海上の物凄きこと云はん方なき光景、併し一刻を争ふ大切の場合であるから、午前七時二十分に至り、野村船長の英斷に依り、斷然出帆と決し、船首を數千哩を距る新西蘭ウエリントン港の方位に向けて抜錨した。

 さて出帆後は以前に增したる強風にて激浪數次甲板を洗ふ。

 普通船ならば斯かる天候には出帆を見合すが當然であるが、我開南丸は遠征當初の腕試しとして先づ冒險の征帆を張つたのである。

 之に反し、他の船舶は一時航海を中止し、先を争うて館山へ入港避難し、爲めに通航の船舶一隻も其影を認めない。

 やがて沖合に乘出すと、激浪怒濤の爲め我開南丸の船體は傾斜十五六度を示したが、兎も角滿帆に風を孕ませて、南へ〱と航走した。

 午後六時前後より海風は、一時收まりかけたが、浪は尙ほ高くして、豫定の針路を航走することが能きなかつた。

 同十一時頃に至り、野島崎燈臺の警火を左舷正横約十海里北東の距離を望見て漂泊しつゝ夜を明した。

 夜來晴雨計は依然として降下しつゝあつたが、翌二日午前四時頃に至り、西北の和風が吹き初めたので、目的の針路に向つて南進を初めた。

 同八時頃には再び降雨を見、船體は高浪の爲めに激しき動搖を起すので船員は上甲板に在る燃料石炭及び食糧貨物の取片付に多忙を極めた。

 同十一時頃に至り、西方遠く伊豆の大島を認めた。

 隊員は斯かる小帆船にては何分初航海の事とて、大多數船暈に惱み、食事を喫することも出來ぬ様子なので船員等は多少の懸念の無かつた譯でもないが既に箭は弦上を離れたやうな今日の場合、一刻一瞬の猶豫も出來ず、氣遣ひ乍らも極力南進を急いだのである。

 午后六時頃よりは強風全く西位に轉じて吹出した爲め、航海は極めて愉快となつた。

 翌三日、八丈島を遙かに見て、針路を加減し、全帆に西風を受けて進航した。

 隊船員の大部分は前日來の船暈猶ほ全く癒えないと見えて、終日食堂は寥々たるものであつた。

 夜來の海風漸く靜まり、四日の空には灰色の曇雲密に打鎖して居たが、風位は北西であつた爲め、航海には最も都合が好かつた。

 此日の朝餐には船暈者の爲め特に粥を調理したが、その粥さへ二三人が箸を執つたばかりで、多くは猶ほ食を斷つて居た。

 午頃から朝來の密雲漸く薄れ、程なく日光は雲間を洩れ、全員をして勇氣を恢復せしめた。

 そこで夕餐の食卓は航海後初めての珍味を以て飾られたが厨夫の心盡しも豫想ほどに酬ゐられなかつた。

 前日午后に續いて、五日の朝は快晴で、加ふるに南進に都合よき風位であつた。

 氣候も輕暖を覺え、日光も吹く風も、人の肌に快く、總員は珍らしくも甲板に集うて閑談を交ふるほどの元氣となつた。

 併し一利一害は數の免がれざる所で、氣候が溫暖になるに從ひ、艙内から異臭の瓦斯を放散するので、乘組員一同は殊に衛生上に注意を拂ふことになつた。

 晩餐の卓上では、漸く隊員の食事の小言が洩れ出して、炊事方を困らせるようになつた。

 以て船暈者の胃腑の回復されたことが知れる。

 翌六日頃より時々驟雨が襲來するやうになつたので、乘組員は甲板上に裸體のまゝ飛出し、奇抜なる驟雨浴を試み、又慾の深い連中はシャッを洗つたり、犢鼻褌を濯つたりして嬉々として騷いだ。

 船は箭の如く征南の針路を取つて、七日の海上を駛走した。

 暑氣は日一日に加はり、乘組員の多くは、甲板宿泊を好んで試みるやうになつた。

 元來甲板宿泊は直接外氣に觸れるのであるから、非衛生的のものではあるが、暑氣と例の室内の惡臭とを避くる爲め止むを得ず實行することゝなつた。

 殊に北寒の地に育つた樺太犬と、花守山邊の兩アイヌは暑さの嚴さを他一倍感じたらしい。

 折しも八日午後一時頃のこと鰹の一大群が隊伍を組んで船首に出現した。

 花守アイヌは習ひ覺えた銛を執つて、大に手腕を示さんものと之が捕獲を試みたが、惜いかな皆水際を離れると同時に銛から墜ちて、一尾も手に入らなかつた。

 九日朝來大空雲影を認めぬが、風位南方に轉じたので、針路を東に轉じて航海を續けた。

 風位は次第に南進の帆走に不適當となるのであるが、征途猶ほ遼遠であるから、今より汽走なぞと云ふ贅澤は出來ない。

 目下航進中の海上は回歸線近傍とて、暑熱は極めて甚しく寒暖計は日中八十度を示して居る。

 船室内生活の苦痛は益々加はり、晝夜大部分の時間は、甲板上で過す工夫をすべく餘儀なくされた。

 船艙内から洩れて來る臭氣は、魚油と硫黄とより發散する瓦斯の混合したもので、眼に多大の害を與へる。

 前日船首に現はれた鰹の大群は、今日も亦た再現して來たので、甲板からは吾れも〱と釣を試みた。

 すると釣は頗る容易で、瞬く間に船上は忽ち鰹の山が築かれた。

 晩餐には久振に鮮魚の馳走に一同舌鼓を打つことが出來た。

 翌十日も昨日と同じく快晴であるが、風位は極めて不定で、且つ輕風である爲めに、海上は頗る靜穏だが、暑熱は一層烈しさを加へ、隊員等は殆ど丸裸で日陰を追うて甲板上の隅々に坐を移し巡る程であつた。

 昨日釣つた鰹の臟腑を釣針に附けて、船尾に流して置いたら、何者かが來て、それを一嘑に嚥んだものと見え、苦しさに藻搔いて曳く力に、綸の切れむばかりの様子、之を發見した連中は、聲を揃えて曳上げて見ると、長さ一丈に垂なんとする二十五貫目以上も有らうと思はるゝ大鱶であつた。

 萬歳々々の歡呼は、暫し甲板上に鳴響いた。

 厨夫は早速執刀した。

 太平洋の珍味は、意外にも此夕一同の腹の蟲を驚かせた。

 翌十一日の天候は東北東の輕風吹き、海上極めて靜穏、涼氣自ら爽快で、昨日捕獲した三十二尾の鰹鯖に舌鼓を打つて愉快なる一日の航海をした。

 十二日は黎明よりマリアナ群島の東端一孤島附近を通過した。

 午後二時五十五分視界遙に火山を見る。

 其狀恰も摺鉢を伏せるが如く山頂噴烟盛也。

 白瀬隊長を始め隊員連中は甲板上に集まつて、左眄右顧しつゝ『之が南極の陸影であつたならば・・・』なぞと歡語しつゝ頗る元氣であつた。

 十三日は、天氣好晴、東南東の和風吹き、波高く、船體は動搖して、左右約十一二度の傾斜を示した。

 隊員中には猶ほ船暈に惱まされて居る者もある。

 中には南洋群島への寄航を希望する者も出たが、豫定の航程を急ぐ爲め船長は之を聞流して一直線に針路を進んだ。

 赤道も近づいたので、彈藥の爆發や、食糧の腐敗などが起つては大變と、注意に注意を加へた。

 天氣は極めて麗らかではあるが、時々驟雨の來襲がある。

 例の天然浴や洗濯などの盛んに行はれたのは云ふまでも無い。

 館山港出發以來、今日で南東への航程正に九百〇六海里半に達した。

 天氣は今十四日も快晴である。

 驟雨も日課の如く時々襲來する。

 驟雨襲來の際は午睡の夢凉しき隊員等は遽かに目覺めて、大狼狽の滑稽を演出し、又た船員の方も帆の始末に忙殺されて、甲板は何時も火事場のやうな混雑を呈した。

 十五日の午後、始めて鑵詰果實を開いて總員に分配した。

 暑熱も餘程加はつたので、各自衛生の注意を怠らぬやうにした。

 白瀬隊長は常に洋服で居つたが、他の隊員は和服姿で居た。

 船長は船員に對しては一切和服を許さぬ事に定めた。

 此日輓犬一頭病死した。

 翌十六日より十七日にかけて、天氣は、或は晴、或は曇、風位は逆風にて船の進航は思はしくなかつた。

 十八日は朝來殷々たる遠雷が聞えた。

 風は不定、浪には南東の蜒りがあつて、船體は頗る動搖した。

 船は午前七時汽帆兩走で南東の針路に急駛を開始し、午後より風順位に復したので、夕暮から汽走を休止して帆走を續けた。

 十九日も例に依つて朝のうちは涼しかつたが日の冲天と共に暑氣加はり、季節冬至に近き今日此頃、母國では炬燵を擁する時季なのに、船中は裸一貫で居ても暑さ焼くが如くである。

 二十日の風位は東北東で、風波極めて靜穏である。

 午前六時船長は汽走の用意を命じた。

 同七時頃から風力を借りて、汽帆兩走を試みた。

 此日も隊員の中には南洋群島に寄航せんことを申出た者もあつたが船長は豫定の航程の遅延して居ることを陳べて、其要求を容れなかつた。

 乘組員は此夜涼を趁うて甲板上に集り、一輪の皎月を仰ぎつゝ互に打語らうて居ると、何處の舷端よりか、尺八の低音は濤聲に和して傳はり來つた。

 二十一日は北東の好風で、稍や強く吹き、船體の傾斜左右七八度に及んだ。

 午後三時頃輓犬一頭病死した。

 之が二頭目である。

 直に水葬に附した。

 今後輓犬の健康に就ては大に心配せざるを得なくなつた。

 翌二十二日は、午前中より頻に雷鳴を聞き、驟雨の襲來も時々あつた。

 之が爲めに船員は必死となつて帆の操縦に忙殺せられた。

 正午には快晴となり、午後一時十五分よりは汽走を止めて帆走のみに由ることにした。

 二十三日は、朝來天氣晴朗、海上極めて平穏である。

 風位も亦た北東に定まつて帆走には好都合であつた。

 翌二十四日午前五時に至り、海上風全く死したので、帆走を中止し、唯だ汽走するの外はなかつた。

 此日頃より益々暑氣が加はつて來て、到底汽鑵室に長時間の就業は困難であつたから、船長は水夫二名を火夫の助手として汽鑵部に送つた。

 此頃は毎夜甲板上で、餘興として蓄音機を聽いた。

 二十五日。

 天氣は快晴であるが、風位は不順なので、全く帆を撤して汽走した。

 此日は朝來蒸暑いので、船艙から洩るゝ臭氣殊に烈しく船室に居ると殆ど眩目昏倒せむばかりであつた。

 而して船中裝具の金物類は總て灰色に變じたのには全く一驚の外はなかつた。

 午後四時頃に至つて風位定まつたので、汽走を罷めて帆を張つた。

 二十六日は、天候も良く、風位も好いので、船は箭の如く目的の方向に向つて駛ることが出來た。

 二十七日の午前に至つて風死し浪に東北から推寄する蜓りが出來て、左右各々七八度の動搖を起した。

 同九時頃から全帆を徹して汽走に代へた。

 午後九時頃には又多少の風力を見たので、總帆を展開することにした。

 二十八日、例によつて驟雨が時々來襲するので、其度毎に帆の上下に忙殺せられた。

 船員の中には此多忙を厭うて、『隊員になればよかつた』と愚痴る者もあつた。

 之と云ふも隊員中の甲乙は、此多忙な操帆の作業を呑氣に寢轉んで見て居たからである。

 二十九日は天候半晴で、西位の輕風である。

 海波に前日來の北東の蜓りが矢張り高かつた。

 船は漸く赤道の眞下に近づいたので、乘組員は隊員となく船員となく『赤道は何の邊だ』と云つて騷ぎ出した、そこで一行中の惡戯者は望遠鏡の鏡面に赤の横線を引いて、之を此處彼處へ見せ廻つた。

 此日午前六時二十分、東經百五十三度五十八分の子午線より愈よ赤道を通過したのであつた。

 午後七時頃海鳥が船尾へ來たので水夫の一人が之を手摛にしたのは一興であつた。

 今日は母國を出帆して宛ど一箇月目であるといふので、船内は出發當時の回顧談で持切つた。

 三十日は、風位風力が極めて不定であつたので、勢ひ針路も不定ならざるを得なかつた。

 船長の意思ではソロモン群島のギンゲインヴイル嶋と、コイゼウル島との中間を通航する目的であつたのだが、風の都合も思はしくないのと、天候險惡の兆が見えた處から、針路を東方に向け、横帆とヂブと二枚を用ゐて航走した。

 此日何れの方向から來たものか無數の流木を認めた。

 翌日は十二月三十一日。

 記念深き今年も今日で愈よ終焉を告げることゝなつた。

 天候の險惡益々甚しきを加へたので、船は荒天航走の準備を整へた。

 昨日赤道を通過した計りなので、炎熱猶ほ焼くが如く乘組員一同はシャツ一枚になつて、元旦の晴の馳走を用意すべく、例の臭い艙内から品々を取出した。

 浴衣一枚で大晦日を迎へた一同は、少なからず奇異の感に打たれた。

 翌くれば明治四十四年の元旦である。

 夜來の風雨次第に烈しさを加へ、午前二時前後は、迅雷轟き、最も凄惨なる光景を呈し、滿船の勇士も聊か荒膽を冷した。

 船長機關士等は最も針路に注意を拂つて航走を續けた。

 午前九時新年を祝福すべく、總員一同は前甲板に集つた。

 隊長は先づ祝辭を述べ、總員一同、遙に母國の空を拜して、天皇陛下の萬歳を三唱した。

 式終るや否や、制服制帽に窮屈を感じて居た隊船員は、忽ちシャツ一枚の無禮講となつて、葡萄酒の祝盃を擧げた。

 此日の馳走は乾餅の雑煑、韶陽魚、數の子、鮭、鯨、鰯、蛉蜊等の鑵詰を原料としたるものであつた。

 就中最も一同を喜ばしたのは、平素衛生上用ゐ來つた麦飯に引代へて、雪の如き米の飯であつた事である。

 二日から三日に亘つては、殆ど間斷なき降雨の爲めに、海上には南の波動を起し、船體は頗る動搖した。

 其爲めか測程器に故障を起したので止むを得ず、手用測程器を用ゐて之に代へた。

 三日夜十時頃猛烈なる驟雨襲ひ來り、風位は西に轉じた。

 四日は朝來の半晴で、目的の南方指して進航を續けることが出來るやうになつた。

 五日午前九時頃に至り、東方水天髣髴の邊に、雲か山か、一髪の靑螺を認めた、それは無名の一小島であつたが、實測の結果、海圖とは其位置に少しく相違があつたので、他の方法に由り測量すると、全く時辰儀の日差の異れるに因ることを確め得た。

 其島の位置は、南緯七度二十五分東經百六十二度四十分である。

 此日乘員一同は汁粉に舌鼓を打つた。

 六日から八日までは、天候不良であつたが、九日に至つて、連日の密雲漸く薄れ、風位南東に轉じたので、船體は頗る動搖したけれども、航走には頗る都合が好かつた。

 此邊海上は、赤道を離れて早や南緯十五度にも達して居るが、暑氣は猶ほ却々に烈しく、驟雨も毎日時々來襲した。

 十二日の午後に至つて、征襟漸く一掬の涼味を覺ゆるやうになり、又た此邊の海水の色は、一種異様の薄白色を帶びて居ることを認めた。

 而して南東の波動は、高さ十五六呎幅約五間ぐらゐのものがあつたが十四日に至つて、波動は漸く減少し、随つて船體の動搖も鎮まり、隊員連は爲めに非常に喜んで居た。

 併し船長は、風力が不足なので、大に澁面を造つて居た、此日高川水夫は、見張所の中で、ボーシンと名づくる一羽の海鳥を生擒した。

 尙ほ此日厨房に蔬菜が缺乏を告げたので、以後ライムジュースを代用することにした。

 十五日から十八日までは近來稀有の快晴で、森茫たる海洋上も、宛ら靑疊を敷いたやうで、絶好の航海日和であつた。

 併し風力が不足なので、多くは汽走を以て駛り、時に又た帆走をも試みつゝ、南へ〱と豫定の針路を南進した。

 此頃は乘員一同海上生活に慣れて、晝は船尾の甲板に集り、蓄音機などを持出して大に興じ、夜は皎々たる月下に打寛いて、得意の隠藝を演じなどして夜の更くるを忘れる程であつた。

 十九日には、汽鑵に故障を生じたので、一刻千金の貴き時間ではあるが、止むなく一時航進を中止して、之に修理を施した。

 一方船體を檢するに、連日連夜の暴風怒濤の迫害の爲めに、白帆の一面は灰白色となり、又た船の外板水平面は、多くの水垢、海草、貝類などの附着物が生じて、爲めに流石の鋼鐵板も、水錆を生じ、殊に留釘の箇所は腐蝕して將に離れんとして居るのを發見した。

 二十日、二十一日の兩日は風位が不定なので減帆して多くは汽走を用ゐた。

 又た時々遠雷殷々として轟き、驟雨も亦た來襲して、大に船員を忙殺せしめた。

 二十二日に至つて、天候は漸く平調に歸し、風位も東方に定まつたので、總帆を展開して南方に急駛した。

 此日は風淸く氣朗らかで、坐ろに人の心を樂しましめるので、船長は一等運轉士に對して、『今日は天氣も好し、風位も申分のないお祝に、御馳走を奮發しやうぢやないか』と諮つた。

 之を洩聞いた隊員の一人は、鬼の首でも捕へたやうに、『號外〱ッ』と全船に觸廻つたので、食はぬ先から歡呼の聲は其處此處に起つた。

 二十三日の天候は恰も母國に於ける彌生の花曇りのやうで、風は東方より吹いて頗る航海には便利であつた。

 船長は朝來飲料水や食物などの檢査をして、一同に衛生上の注意を與へた。

 連日來輓犬が相尋ゐで八頭病死した。

 其原因を調べて見ると、乘組員の殘飯のみを食しめた爲めではないかと疑つて見たが、後日に至つて其死因は縧蟲の寄生した結果であることが知れた。

 三井所衛生係も手當の盡し様はないと云つて匙を投げた。

 夜十時頃船尾遙かの海上に、漁火の如き二箇の光を認めた。

 之は汽船が航海しつゝあつたのであらう。

 二十四日から二十五日へかけては、内地の五月頃の氣候で、頗る心地よく、海面上東南の波動の爲めに船體は左右七八度の傾斜を示したが東位の和風甚だ帆走に適し、目的の方向に向つて航進を繼續することが出來た。

 殊に二十五日は、天神の祭日に當るので、遙に母國郷里の祭典を思ひ型ばかりの馳走が卓上に並べられた。

 船長は一刻も早く寄航地たる新西蘭に到着せねば、後援會では大に心配するであろうと考へて少なからず急駛の方法を講じた。

 二十六日は風位不順の爲め、殆ど東方に向つて航走した。

 船體の動搖は昨日にも增して激しく、船の進程遅々として頗る不愉快であつた。

 二十七日から二十八日へかけて、風は益々強くなつて、氣溫は急に涼しくなつた
ので、今朝から食卓を甲板上から室内食堂に移した。

 副食物としては奈良漬、鮭、福神漬等が其重なるものである。

 翌二十九日も、風位依然として帆走に適せず、汽力を以て東方に航走を續けた。

 涼氣は益々加はつたので、此日から靑天井の甲板寢を禁じて、室内に起臥することゝ定めた。

 折しも午前十時頃遙か東南方に當つて新西蘭北島の西北端を發見したので、乘員は拍手喝采して歡呼の聲を擧げた。

 思へば我開南丸が品川灣頭を辭して以來、陸影を見ること之で僅かに第三回目である。

 三十日早朝白瀬隊長は起出づるや否や、船長に對し新西蘭寄港の豫定を訊ねたが船長が『風位の不良の爲め、昨夜半から沖に向つて船を回轉したので、ウエリントン方面に直航することの出來ないのは頗る遺憾である』兎に角此場合、風位の順調に向ふを待つより外に良策がない』と答へた。

 夜來の天候は依然として險惡であるが、三十一日の午後一時頃から風雨が稍や穏かになつたので、針路を南に轉じ滿帆に順風を受けて進んだ。

 午前十時頃再び陸地が視界に現はれ初めたので、一時は落膽した隊長を始め總員は手を拍つて大に喜んだ。

 併し船長を初め船員等は南方の波動の激しきを氣遣つて居た、と云ふのは陸岸附近であるので暗礁などの危險が無いとも限らぬからである。

 翌くれば二月一日、昨日に變らず風波高く、船體の動搖随つて甚しく隊長初め隊員等は、『全體船の針路は新西蘭の方向に向つて居るのか』と云つて訝り出した。

 船長は之に答へた、『風位の不順と夜來屢々來襲した狂風驟雨の危險を避ける爲め、多少進程に加減を加へて逆航したから諸君の訝るのも無理は無い』と云つた。

 二日午後二時頃エグモント山の山頂を認めた。

 此山形は宛ら我が富士山に髣髴たる死火山である。

 海抜八千二百六十呎、山頂には白雪を戴いて居るのが見える。

 一同は地平線遙に此山を望見て、遠く母國の懐かしき風景を回想した。

 船はエグモント岬附近に向はうとしたが風位不調の爲め、危險を避けて中止するの已むなきに至つた。

 夜の十時頃に至り、エグモント岬を左舷に見て進航した。

 翌三日午前一時、エグモント岬の燈臺前を通過して、同三時半の頃から、ウエリントン港指して針路を取つた。

 隊員の幹部連は眛爽から上陸準備に多忙を極めて居たが、船長は晴雨計が次第に降下して刻一刻天候險惡の兆を示すを見大に懸念はしたが兎も角汽力と風力とを能ふ丈け利用し港口を指して急航した。

 此日、日沒の模様は最も危險なる暴風の前兆を呈したので、船長初め船員一同は大に警戒して居つた。

 すると果然夜の九時頃に至つて、一陣の旋風來るよと思ふ間もあらせず、波濤怒りて船を弄すること木葉の如く爲めに傾斜二十度に達し、ウエリントンへの入港は、一時絶望に終つた。

 加之。

 海上は一面濃霧に鎖され、濛々として咫尺を辧ずることすら出來なかつたから成るべく沖合の安全なる海上に漂泊しつゝ夜の明くるを待つた。

 圓かなる夢を結び得ざる不安の一夜は明けたが、翌四日も風波は更に收まらず、加ふるに午后一時半頃非常なる豪雨來り、同六時まで降續いた。

 翌五日も昨日に變らぬ強風怒濤で汽罐の全力を使用するも、一切進航の効を奏さなかつた。

 此邊の海はクーク海峡から流來る潮流が驚くばかりの迅度であつた。

 そこで六日から七日へかけて、船は同海峡内を斜走して目的地に接近する方法を講じたが、遂に無効に歸した。

 八日も亦た前日來の斜走を續行して辛ふじて目的地に近づくことが出來た。

 午前八時頃ペンカロー燈臺に並航して、サムス島燈臺を指して進入した。

 サムス島附近水路誌に據れば同島には檢疫所があると誌されてあるが、正午頃同島に近づくも、更に檢疫の模様が無いので直路ウエリントン港内さして進航した。

 午後二時頃に至り、檢疫の小蒸汽艇が我開南丸を目蒐けて近づいて來たので、直ちに錨を投じ各員は檢疫を受けた。

 幸にして船員中一名の故障者もなく、同二時三十分終了したので、再び錨を抜いて港内に向つた。

 此際檢疫船に白瀬隊長武田學術部長三井所衛生部長、島事務長外一名便乘して先きに上陸した。

 開南丸は同三時四十分頃、港内西南部英國商船棧橋の附近に碇泊した。

 此邊の風景は、洵に美で、久しく海上に怒濤とのみ闘つて居た總員の眼には言ふベからざる快感を與へた。

 海濱近き陸上には、教會堂らしき大建築物があつて、多數の靑年男女の運動嬉戯するさまは、宛も人形のやうに見えた。

 電車も海岸まで通じて居る。

 乘組員は甲板上に集つて、喜び勇んで陸上を指顧しつゝ語合つて居ると、同四時三十分頃、港務員が來船して、碇泊地を移すべく請求した。

 そうして其指定された碇泊地は英國軍艦コンピオン號の艦尾近き箇所であつて、此處に投錨を許されたのは、ウエリントン政廰の多大なる好意であつたことを後にて知つた。

 此夕英艦乘組員や新聞記者や港務官吏等の來訪が續々あつた。

 翌九日午前八時、港務官來船し間もなく税關吏も來り、他に四名の來客もあつた。

 今日政廰と領事官との命令によつて、開南丸を棧橋へ横付けにせよと云ふ事であつたが、種々都合もあることで、其命令に從うことを辭した。

 同九時三十分頃船長は税關、領事館、港務部等への用事と、船用の買物とを兼ねて上陸した。

 各乘組員も半數づゝ交互に上陸を許されることゝなつた。

 上陸後船長は、石炭三十二噸、飲料水三十六噸、其他重要の船具購入の約束を了つて歸船した。

 此日は石炭飲料水などの積入で、船では非常に多忙を極めた上、更に領事館員や新聞記者等の來訪者が多數で、一々之に面會せねばならぬので、幹部連は品川出帆當時の多忙よりも、更に多忙であると云つて愚痴つた位である。

 翌くれば十日は、一天拭ふが如き好晴である。

 彌よ明十一日には氷海指して出發する豫定なので、今日は十二分の休養をとるべく總員に交代の上陸を許した。

 領事館よりの通知によるに、前日白瀬隊長との打合せの通り幹部一同上陸せよとの事であるので短艇を艤して海岸に到着すると我名譽領事ヤング氏は自動車を用意して一行を待受けて居た。

 一行は得意然として打乘ると、ヤング氏は自らハンドルを把つて市内各所の案内をしてくれた。

 領事館、公園、公會堂の三箇所には數多の貴婦人打集うて、一行に手篤き饗應をして呉れた。

 又た會衆中の花の如き令嬢は、一行に勸めて庭球の競技を強いなどして款待してくれた。

 花の如き是等の美人と、赤道直下の炎熱に、眞黑々に焼付けられた荒くれ男とが、一つコートに相對球したのは、一種の奇觀であつた。

 凡て客を待遇することに就ては外國婦人は實に優れた手腕を有つて居る。

 到底我日本婦人などの遠く及ぶ所ではない。

 之が爲めに我一行は連日の辛苦を一掃し去つて、新に南征の勇氣を保つことが出來た。

 歸途寫眞材料などを買つて、市民の好意による特別無賃の電車に搭乘して夕刻歸船した。

 此夜多數の學生が來船した。

 彼等は日中は日課の嚴なる爲め止むを得ず夜間の休暇を利用し來訪したのであると語つて居た。

 シドニー日本人會と、新西蘭北島に居る唯一の本邦人三宅幸彦氏とから、我壯擧の成功と、一行の健康とを祈るとの祝電があつた。

 二月十一日の紀元節、此好箇の記念日を以て、我開南丸は愈よ其目的とする極地に向つて、ウエリントン港を抜錨する事に決した。

 母國の後援會から送金があつたので、午前八時三十分、白瀬隊長は、四五名の隊員と共に之を領收の爲め上陸した。

 同九時船は全く出帆の準備が整つた。

 此時領事から書面があつて、出發期を翌日に延期することは出來ぬか、出發の際は盛大なる送別式が催したいから、能ふべくば明日の日曜にしては如何との事であつたけれど、一行は瞬時も早く南極に達せんことを急務として居たから遺憾ながら其申込を謝絶する旨を答へた。

 すると第二回の申込に出帆は午後まで延期してくれよとあつたので、之は謝絶も出來ないので、承諾の旨を答へた。

 正午から見送の快走艇は、陸續として春の野の胡蝶の群が、花を目蒐けて集ふが如く開南丸を取圍んだ。

 中には四百噸にも餘らむばかり異様な四階造りの汽船もあつて欄干には綺羅を飾つた男女が歡呼しつゝ見送つて居た。

 總員は手巾を振り又は帽を振つて之に應へ、船は徐ろに錨を上げて出發した。

 やがて碇泊中の英艦の傍を過ぐるや艦内より『貴隊の無事成功を祈る』との信號があつたので、開南丸より『貴艦の同情を感謝す』との信號を返した。

 船が灣口を過ぐる頃から、天候は見る〱不良の兆を現はし、波高く、風強く豫定の進航が困難になつた。

 明けて十二日も、天は曇り、風位も不定で、船は南へ直航することが出來ないので斜走した。

 殊に不愉快なのは潮流の迅いことである。

 十三日に至つて風力が餘程減じたので、專ら機關を使用して進航した。

 十四日は、山成すばかりの波濤が殆ど間斷なく襲來して、船長をして多年の經驗中此くの如く大波濤を見たることが無いと絶叫せしめた程で、船體の動搖は甚だしきものであつた。

 十五日に及んで、波濤の大波動は餘程減じたが、朝來非常なる濃霧が立罩めたので、航海上昨日に優るの困難を感じつゝ汽走を續けた。

 新西蘭碇泊中、元と一商船の船長を永年勤めて居たといふ某英國人から此沿岸の天候の概略を聞いたが、其人の話に據ると、西海岸の冬期には變化が多いが、東海岸の方は何時も天候が良好であるとの事であつた。

 併し事實は之に反して居ることを經驗した。

 十六日は、空は曇つて南東の高大なる波動があつたが、乘員はウエリントンで買込んだ新鮮なる食品に舌鼓を打つた。

 風は餘程輕減したが、漸く順風となつたので目的地に向つて航走するに好都合であつた。

 翌十七日の午前二時頃から、非常なる濃霧立罩めて打見る海上は白濛々たる世界と化した。

 船長は此狀を見て、南太平洋の霧の豫想以上に深きことを新に經驗した。

 此頃に至つて天候の然らしむる所か、乘組員の中に頭痛に惱む者續出した。

 同八時三十分頃、海獣類に似たる水禽が船側を目蒐けて遊泳して來た。

 三井所氏は長竿の尖端に袋を着けて之を取押へた。

 熟々視ると、新西蘭の博物館で見たことのあるペンギン鳥に相違なきことを確め得た。

 此鳥の姿は宛も人間が外套を着て立つて歩く如き風采で歩むのであつた。

 仍て直ちに船工に命じて鳥箱を作らしめ、之に食物を與へたが、一向に食はないので、麵麭を粉末になし、之を丸めて嘴口中に入れ與へた。

 十八日は幸にも前日來の濃霧霽れて、半晴の澄める天氣となつた。

 海上東南の波動は相變らず、船體を動搖せしめた。

 此邊から寒氣が漸く強烈になつて來た。

 上陸隊員は此寒氣で、往く〱身體を鍛へて往けば極地に向つた際に困難を感ずることが少なくなるであらうなぞと云ひ合つた。

 十九日は天候不定で、波動の高きこと前日の如くであつた。

 二十日は荒れ模様で、時々驟雨が來襲した。

 風位は北西で頗る強い、二十一日に至り、夜來の荒模様愈よ甚しくなり、波濤は益々狂怒し、船體は木の葉の如く揉まれた。

 午後には恐るべき三角波が來襲したので、船では急遽漂蹰法を施した。

 二十二日も前日に引續き漂蹰法を施しつゝ進航した。

 猛烈なる驟雨は此日も朝來時々襲來した。

 風位が突然變化するので、航海の困難は到底筆紙に盡すことの出來ぬものがあつた。

 而して二十三日に至り、天候は益々險惡となつたので、船員は極力避航安全法を講じたが、午後六時頃から俄然天候恢復の兆が見えたので、展帆して快進した。

 隊員中には檣柱の周圍を飛廻つて居る無數の信天翁を捕へんと工夫した者もあつたが、すべて徒勞に終つた。

 二十四日激浪は相變らず高く、船體の動搖も亦た相變らず甚大であつた。

 正午近く晴雨計は急に降下した。

 而して午後に至つて天候は再び險惡となり、船は揉まれに揉まれつゝ、翌二十五日を迎へると、朝來風雨激しく船の傾斜は左右二十度を示すに至つた。

 午後に及ぶも天候は更に恢復の兆が無かつたが、時々飛雲があつて、半晴の狀を呈することもあつた。

 此夜十一時半頃、中天の雲間に細き線狀を爲せる赤色又は白色の奇雲が現はれ、一消一現して美觀云ふベからざるものがあつた。

 之と同時に我南極探檢旗に現はしてある南十字星が、南八十度の高さに其燦然たる光を放つて居る。

 又た三光星を北五十度位の高さに仰いだ。

 昨日に引續き二十六日も晴曇相半して、はつきりせぬ空模様である。

 風は餘程穏になつたが、暴風後の事とて激浪は未だ全く收まらず、船體の動搖甚しく帆面への反動が激烈であつた。

 それが爲めに主帆及びガフに故障を生じて、之が修理に手間取つた。

 夕刻の六時頃、始めて降雪に遭遇した。

 二十七日も亦た降雪で、海上の激浪も昨日に異ならぬ。

 正午から一層天候不良になつて、霧雨を催ふし、寒威が一時に加はつて來た。

 船員等は何時流氷に逢ふかも知れぬと、各々深き注意を海上に拂つて居た。

 二十八日の天候は夜來の霧雨で加ふるに北西の風強く、險惡な日和であつた。

 船の動搖も昨日の如く烈しく、船尾から逆卷き來る怒濤の爲めに、備附の寒暖計一箇を破壊流失せられた。

 帆は半ば以上減じて、多くは汽走によつて、南進した。

 進むに從つて寒氣は益々加はるので、常に流氷に注意を怠らず拂つて居た。

 折しも左舷甲板側に當つて、前方の航路に白色の島嶼とも思はるゝ物を發見した。

 次第に近づき進むと波濤の爲めに破壊されたる二三の小流氷に出遇つた。

 之が我開南丸が流氷に出遇つた抑々の初めであつて、時に午前十一時四十分であつた。

 此時海水溫は非常に降つて來たので、前方に見ゆる島嶼狀の物は、慥かに氷山であるといふ斷定を下すことが出來た。

 やがて、午後零時四十五分に至り、曩の島嶼狀の物は正しく一大氷山であることが、更に確實に判明した。

 其形狀は牛の頭部を水中に沒して、背部のみを海面に現はしたやうで、高さ約二百六十呎、周圍約一哩位あらうと思はれた。

 此日は此大氷山を最初として、次から次と、續々大小の氷山や流氷に出遇つた。

 此夜九時三十分頃極光とも思はるゝ光を認めた。

 其狀宛も探海燈の光の薄いやうなものであつた。

 一日午前零時三十分、再び極光を見た。

 其光景は宛も花火の様であつた。

 續いて同一時五十分、昨日出遇つた物に優る大氷山に遭つた。

 其氷山は高さ約三百呎、周圍は三海里にも達すると思はるゝ様な雄大なる姿で色は靑味を帶びて居た。

 船で之を注視して居ると、氷山は右に左に位置を轉々して動ともすると船體に衝突するかの如き危險が生じさうなので非常なる警戒をして居つた。

 併し氷山の流るゝ速度は頗る緩やかなるもので、潮流に乘じて流れて來るのであるから、注意さへ怠らなければ、大抵の場合は危險を避けることが出來るものである。

 此附近の潮流は、幾條もあつて、すべて針路は東北方に向つて居る。

 午前八時頃から海上一面の濃霧となつたので、見張番の當直者は、一層流氷に注意を拂はなければならぬことゝなつた。

 之に加ふるに午後から飛雪霏々として來り晴雨計は頗る險惡の兆を示した。

 此日出遇つた重なる大氷山の數は四個である。

 前日來の降雪は翌二日に亘つて降りしきり、時々疾風が吹起つて、時ならぬ吹雪となるので、船は名狀すべからざる困難を感じ、船員等は甲板上の積雪を掃去る作業に多忙であつた。

 又た時々激浪が甲板上に打揚げるのは物凄くもまた怖ろしい。

 此日遭遇した大氷山の數は三箇であつたが、すべて氷山に出遇つた場合は汽力風力を巧みに利用して、注意深き避航を以て進むことにして居た。

 三日も朝から雪で、非常に寒く、甲板上は一面に氷結した。

 船では雪の途斷えた間を見て天測を行うた。

 夜の八時三十分、風位が順調になつたので機關を停めて帆走した。

 此日出逢つた大氷山の數六箇小氷塊は無數であつた。

 翌四日の午前零時二十五分船首に當つて、一大氷山の浮動せるを發見した。

 之を避ける爲め、急遽機關を使用して、摺違ひながら之を檢するに、水面上に現はれたる高さ三百呎周圍は二哩程もあつた。

 五日午前十時頃、巨大なる鯨の群が、無數に氷山の間に集合して居るのを發見した。

 其壯觀、實に形容の辭なき程であつた。

 午後に至つて又もや雪降り出し、寒氣は一層強くなつた。

 夜の九時頃極光を見た。

 此日も大氷山には數知れぬ程遭つたが、今日までの經驗により其危險に對する心配は餘程薄らいで、却つて其莊嚴にして凄壯なる光景に對して實地其境に臨まなければ、迚も想像だに及ばぬ底の壯快を味ふやうになつた。

 六日は午前から半晴となつた。

 昨日からの測量によつて、船は南極大陸に餘程接近したことが解つたので若しや陸影の目に入ることもやと瞬時の油斷なく行手に注意をして居た。

 すると午前五時過に至つて東南東約四十海里の邊に、雲の如く又山の如く見ゆる白皚々たる陸影を發見した。

 此時總員は連日の疲勞を打忘れて踊り狂はむばかりに喜んだ。

 次第に近づくに從つて陸影は、峨々たる白色の高山脈の連亘で其高峰の中には、一見富士山位のものが多數であつた。

 其外觀は尖つた摺鉢を伏せたるが如き有様をなして、天に聳えて居る。

 打見たる處草木の繁茂せる狀は少しもなく、僅かに山麓とも思はるゝ斷崖絶壁の處に、黑色の點々を見得るだけで、滿目只一白である。

 一行の目的とする南極洲の陸地は、愈よ目前に近づいた。

 今日まで或は狂瀾と闘ひ、或は暴風と戰つて、幾千海里の烟波、一百日に埀んとする日子、此間の苦心と困難とが今や將さに酬ゐられんとするの時期に達したのである。

 隊員は爲めに勇氣百倍して、未だ錨をも卸し得ないのに、早や諸般の準備に取掛つて、今にも上陸せん心組で居た。

 此處は南ヴヰクトリア洲のアドミラルチー附近に當るのである。

 七日の午前一時三十五分、我開南丸と並行して大氷山が流れるのを認めた。

 其高さ約二百五十尺位で周圍は二哩とも思はれる位であつた。

 此外にも大小無數の氷山が流れて居た。

 其氷山の頂上に降り積つた雪が、烈風に吹き捲かれて、其附近の海上一面は、宛も白烟の濛々として立罩めたるが如き壯觀を呈して居た。

 午後五時、ベルカー山の附近に、六箇の大氷山の浮んで居るのを見たが、それは殆ど品川沖の臺場を見るが如き形を示して居て、上部は平坦であつた。

 其等の氷山の中には、洞穴のある物もあつて、其洞中に波濤が出入して居る様も見えた。

 折しも、夕陽が南極の山に映じて、是等の氷山を彩つた光景は、話に聞く仙境とは、恁んな美景を云ふのであらうと思つた。

 八日も連日の如き無數の氷山氷塊の漂流するのに遭つた。

 氷山は極地へ近づくに從つて、全然其形が小さくはなるが、併し十分の注意を拂はなければ頗る危險である。

 午前六時頃チヨレツト・ポイントの陸岸約六海里の處に接近したが、風位が思はしくないので、船は斜走するの止むなきに至つた。

 やがて、一箇の島影が眼界に現はれた。

 それはポツセツシヨン群島であつて、其數は六箇より成り、北より南に向つて、殆ど整列の形を成して居た。

 其傍を進航しゆくと、又も氷塊氷盤の海に出た。

 翌九日午前三時頃夜が明け離れ、風は順調に復したので、增帆して進航した。

 同八時三十分前後から、海上全面凍結しつゝあることを認めた。

 初めは小形の蓮の葉の如き物であると見て居るうちに、それが次第に海面に擴がつて行くのである。

 そこで、船は成るべく結氷の少なき方向を選んで南進した。

 此時右舷前方に當つて、雪に掩はれしコールマン島を見た。

 此島は可なり大い島で、中央に山とも思はるゝ突起した場所が、二箇所ばかりあつた。

 此邊で特に驚くべきことは、羅針盤に狂ひを生ずる事である。

 此日は終日結氷しつゝある、海を右縫左航しつゝ困難を極めた。

 十日は概して半晴であつたが、又時に降雪を見た。

 海上の波濤は高く、結氷海に於ける船體の動搖と其危險とは、名狀し難きものであつた。

 特に風が逆風であつたので、斜走して進航する外はなかつた。

 船員等は注意に注意を加へて、結氷の模様、羅針盤の錯誤等の研究に多忙を極めた。

 初め蓮の葉を水面に散らした如くに見える直徑一尺厚さ一寸許の結氷は次第に方二間位もある氷盤と爲つて、海面上に流れるのであつた。

 南緯七十三度二十六分の海上に於ける測量に據れば、結氷の厚さは五吋乃至一呎餘となつて居た。

 それが見亘す限の海上と船の進航力を失はしめんとするに至つた。

 之から以南は一面の結氷なることを發見したので、全く航路を變じて、他の方面から目的地點に進入せんと試みた。

 其結果午後五時三十分頃に至つて、辛ふじて、結氷の厚き場所を離れることが出來た。

 此日は二回迄も氷結の爲めに、船は進航力を失つたのであつた。

 夜來の降雪未だ歇まず、十一日午前中雪であつた。

 船は天候が險惡なので、結氷海の附近を航走しつゝ、天候の恢復するのを待つて居た。

 幸にして正午近くから波濤も鎭つたので、警戒を嚴重にしつゝ、船首を南西方に向けた。

 午後二時三十分頃に至つて漸く船を目的の方面に進めることが出來た。

 其後の海上は、到る處すべて氷結で、船はそれを破砕しつゝ進航したけれども、氷の厚き爲めに數次航走力を失ふのであつた。

 此邊の氷上には南極名物ペングイン鳥の群が無數に居た。

 又た、海獣も此處は我黨の王國であると云はむばかりに遊び集うて居た。

 午後六時頃辛ふじて結氷海を離れることが出來たが、降雪粉々咫尺を辧ぜぬやうな有様なので、少なからぬ困難をした。

 今は偏へに天候の恢復を祈るの外は無い。

 翌十二日も前日と異らぬ降雪で、且つ時々不定の強風が吹いて、船員の作業を妨ぐることが夥しかつた。

 此邊の天候は瞬間に轉々變化して、海上生活に慣れた船員も、少なからぬ苦楚を甞めた。

 正午頃船は結氷の最も厚き場所に乘入れた。

 此處は南緯七十四度十六分、東經百七十二度零七分の地點で、悲しい哉我南極探檢船開南丸の第一次南征航海に於て達し得たる最南最後の緯度であつた。

 最初海面は一面に凍結しては居たが、然しそれ程に氷が厚くないので、船首で突破つて進んで往くと、其度毎に砕氷の響がガッガッと傳つて何となく不快である、然しそれにも屈せず進んで、往くと、軈て結氷は增して約一尺に達した。

 船は憶せず此堅氷の中をも進むに、氷は裂けて兩側に白き堤防の形を爲す。

 一面の海上見渡す限銀色皚々、宛も湖水の結氷の如く、波無くして平坦なる有様である。

 けれども往ける丈は往かんと、尙も船を進めた所、竟に帆力は素より汽力を以てするも効を奏せず、ハツタとばかり停船するに至つた。

 見れば今や氷の厚さは增して二尺に達して居る。

 此時フト振返ると、元來し方は砕氷で兩岸を爲し、高堤を築いて居るが、それが又海上に浮き出し流れて居る。

 何れは又凍結して終ふらしい。

 斯くては出入の航路を閉塞さされ氷海中に立往生せねばならぬ事と爲るから、頗る危險と見て取つて、急ぎ船首を廻すことにした。

 此船首を廻す時の苦心は、一通りや二通りではなかつた。

 船員隊員總掛りで非常の苦心をした。

 何分にも機關は小さいから、船體を後退らせる譯にも往かず、ホト〱閉口した。

 辛つと堅氷を碎きながら風下の方へと船首を向けた。

 そして進むと、氷片が船に觸れて高音を發し、船體の損傷は免れぬかと思はれたが、時期を失しては閉塞されて終ふ虞れがあるので、大辛苦の末漸く危地から脱出する事が出來た。

 その時の愉快は又別で、全く生命拾ひの感があつた。

 それから漸くにして氷の無い處まで逃出したが、さて目前に南極の山を眺めて居ながら上陸し得ぬと云ふは、如何にも殘念の至と一等運轉士に計つて、見張臺から遠方を視察さして貰つた所、一望只氷界!殆ど千里の氷野の如くなりとの事である。

 遺憾は言ふばかりもない。

 引返して見ると、氷海に居つた時は波立たず頗る平穏であつたが、さて結氷點を離れるに從つて波濤も烈しくなり、船體の動搖も激しくなつた。

 十三日午後五時頃の風位は殆ど東北東に變つて居た。

 そこで羅針々路を北に向け、自差八度東偏差四十八度東を指して航走した。

 翌十四日の天候は、時々降雪を催ふして、海上の波高く、甲板の氷結すること亦甚しく、烈風は吹雪を送つて困難云ふばかりなかつた。

 午後四時頃から天候は益々險惡となつて、觀測によると當分恢復の見込もなく、今は全く絶望するに至つた。

 南極洲上陸の目的を抱いて、遙々氷海を渉り、幾多の艱難を排して來たが、目的の地點に上陸するの希望が絶えた。

 殊に昨今は、南極圈では夏期を去つて段々寒さに向はんとして居る時期であるから、逡巡して居ると忽ちにして船が氷に鎖れる憂がある。

 即ち若し一たび氷に鎖れたが最後、冬季間は到底其處から脱出することが出來ない。

 又其鎖氷中に於る船體の損傷などを考へて、進むべきか將た引返すべきかの議題に就て、午後八時幹部會議を開催する事になつた。

 處が此會議の席上では、誰一人口を開く者もなく何れも落膽失望の色に沈んで居たが、結局遺憾ながら一たび船を濠洲シドニー港に引返すことに決議した。

 翌十五日は昨夜の決議に從つて、船首を濠洲の方向に轉じて、歸港を急いだ。

 此日も吹雪の烈しい不良の天候で、且つ大小無數の氷山氷塊は船の進路を妨げた。

 乘組員等は終日船尾の甲板に集つて、目的地たる南極洲を眼前に見ながら、上陸の出來なかつたのは頗る殘念であると、一同天を仰いで長嘆したのは、無理ならぬ次第である。

 十六日から十七日へかけても、亦た連日の如き流氷波濤と闘つた航海であつた。

 十七日の黎明に月光の現はれたのを見たが、之が南氷洋に入つて以來始めて仰いだ月であつた。

 周圍の群氷に映ずる月光は、宛も白晝の如くであつた。

 此日の午後から天候は益々險惡となつて、激浪の爲めに船首のジップ・ブームを挫折されたが、直ちに應急の修理を施して航走した。

 十八日から二十四日までの天候は、概して不良で、吹雪あり。

 高浪あり、氣候の激變あり、又た流氷の危險などがあつて、航走に非常なる苦心をしたが、二十五日に至つて、天候は依然として變りがないが、風が順位に復したので減帆して走つた。

 此日も降雪があり、時々猛烈なる驟雨の來襲があつた。

 二十六日には稍や天候が良好になつたが翌二十七日には再び變じて險惡の兆を呈し、四十呎もあらうと思はるゝ激浪が、船體を弄び、又た過日來の如き驟雨と風雪とが猛烈に來襲した。

 二十八日には降雪變じて強雨となつた。

 怒濤の爲めに船體の動搖が甚しいので、漂蹰を行ひ、測程器を引揚げて、船が東北東の方向に自然に流れゆくまゝに放任した。

 漂蹰は翌二十九日に至るも撤することが出來ず、又た船員は船體の故障や帆布の破損修理などに眼を廻すほど多忙を極めて居た。

 隊員の方では讀書などして居た。

 三十日には薄き極光の中天に出現せるを見た。

 三十一日は相變らず天候惡しく、海上波濤の狂亂の爲めに十分の航走をすることが出來ぬ上、搗て加へて其午後には烈しき降雨があつて、海上暗憺の光景を呈した。

 天候は連日の如くであつて、四月一日の午後まで續いた。

 それから二日に至つて忽焉として一天拭ふが如く晴れ渡り、風力も亦た微弱ながらも順位に復したので、全帆を張つて快よき航走をした。

 翌三日未明に雨があつたが、午前中に晴上つた。

 平和なる海上に神武天皇祭を迎へたので、船員等は作業を休んで祝意を表した。

 午後六時頃から再び天候は險惡となつたので減帆した。

 四日には午前中から非常な大雨があつて、風位も亦た逆風と變り、殊に濃霧など生じて航海頗る困難になつた。

 而して翌五日から六日へ掛けて、海上の波動高く、又た濃霧も續いて立罩めた。

 此邊には信天翁が群集して居るので、短艇を卸して狩獵を試みた。

 七日は概して半晴であつたが、時々濃霧が起つた。

 風力は少なかつたが順位であつたので增帆して進むことが出來た。

 八日から九日へかけて降雨時々來り、海面の波濤も高かつた。

 野村船長の觀察によると此邊は南太平洋中でも航海上最も危險なる所であつた。

 されば風位の變轉することが多く、船體は潮流又は波濤の爲めに流さるゝことが數次であつた。

 十日の夜は晴れて、月明かに星稀に、測量も思ふやうに出來たが、此頃風位波濤の爲め多く石炭を消費したのが、幹部での心配の種であつた。

 午後七時頃船首索具に故障を生じた。

 間もなく殷々たる雷鳴轟き渡つて大豪雨となつた。

 明くれば十一日、半晴の天氣となつて、時々驟雨の通過に遭うた。

 十二日から十六日へかけては、天候は半晴半曇で、時々驟雨の來襲と猛烈なる波浪の動搖とがあつた。

 十六日の午後のこと、船首の外板一枚、怒濤の爲めに、破損して居たのを發見した。

 此日柏鳥に似た黑白斑の海鳥一羽を射擊したが、海中に落ちて其姿を見失つた。

 十七日は何事もなく、翌十八日の午後六時頃、赤白交りの美しき小鳥一羽、甲板上に舞來つたので、船長は生擒して大切に飼育したが直ぐ死んで終つた。

 此鳥は多分新西蘭から迷ひ來つた者であらう。

 此頃は毎日信天翁や其他の海鳥類の射擊などで、乘員一同は大に興じて居た。

 十九日の深夜、甲板に立つて居ると、久振に南十字星の靑白き光を船の現在の位置の眞上より、少しく南方の空に仰いだ。

 十八日から二十二日までは、天候概して同一で、船内無事別に誌すべきこともなかつた。

 二十三日は日曜の事とて、船内の掃除を終へると休業した。

 驟雨は時々來襲したが、良風ゆゑ愉快に航走することが出來た。

 此日土屋運轉士が、信天翁一羽を射留めて、それが海中に落ちたのを認めて渡邊水夫が、それを捕ふべく抜手を切つて海中に飛込んだ處が、船との距離が餘りに遠ざかつたので、歸船するのに甚だ困難らしく見えたので、木片に綱を付けてそれを船から海中に流し、乘員總掛りで渡邊水夫を引揚げることが出來た。

 二十四日の正午から天候が不良になり、午後二時頃には猛烈なる降雨があつて、ジブシートが切斷された。

 此夜海上一面燐の如き光を放ち、云ふばかりなき美觀を呈した。

 定めし魚族の一種が放つた光なのであらう。

 二十五日の夜も亦た燐光の流るゝのを見た。

 其大なるは三呎位小なるは五吋位であつた。

 土屋氏は其一尾を捕獲すると、それが水母の一種であることが解つた。

 二十六日から二十七日へかけて、豪雨疾風迅雷の三大敵が、鋒を揃へて襲來したので、我開南丸は宛も木の葉の如く、翻弄せられた。

 二十七日の午後に至つて餘程靜穏に歸したが、宛も遙か水天髣髴の間に、濠洲の陸地が、雲烟を隔てゝ其姿を現はした。

 二十九日は半晴の天候で、驟雨の來襲は時々あつたが、順風ゆゑ帆走上頗る都合が良かつた。

 前日來風雨の折に飛込んだものか、甲板上で見廻りの者か、二尾の飛魚を拾つた。

 これを調理して久振に一同は生魚の臭を齅いだ。

 三十日は略ぼ前日と同じ天候で、愉快に航走することが出來た。

 午前八時頃濠洲の東海岸が見えたので、乘員一同は久方振に陸影を前にし、嬉しくも亦た悲しく感じた。

 翌五月一日午前四時頃、風位が突然南に變じたので、針路を北西に向けて航進した爲め、濠洲東海岸の山姿が何時しか視界から消えた。

 仍て、種々工夫して、時辰儀の遅早に差異があるものと思ひ、兎に角機關部に命を傳へ、汽走帆走の全力を傾けて、シドニーに當る方向へ急駛した。

 すると正午頃我開南丸と同じ位の汽船が突然行手に現はれたが、やがて近づいて『沖合で一隻の帆船を見受なかつたか』と問ふ。

 否と答へると今度は『貴船若しシドニーに入港するなら、曳船しやうではないか』との相談であつたが、開南丸は汽走力があるから其必要が無いと云つて謝絶した。

 濛氣で前方が糢糊として居るが、此汽船の來航に卜して、シドニー港は正しく船首に當つて居ることを確めたので、船長は乘員一同に入港準備を促した。

 斯くて、諸帆を收め、專ら汽走を以て港口に到つた時、水先案内船が來て居た。

 依つて導かれて、午後三時四十分、檢疫の終了と共に、開南丸は、シドニー港内ダブル灣の海深四尋半の場所に碇を卸した。

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