■白瀬南極探検隊員の紹介(探検隊員)
●白瀬 矗:隊長
●データ
白瀬 矗 49歳
秋田県にかほ市金浦
文久元年6月13日生
昭和21年9月4日没
■年表
1861(文久元)年
秋田県金浦町(現にかほ市)、浄土真宗「浄蓮寺」の第13世住職知道、マキエの長男として生まれる。幼名を知教。
1869(明治2)年
佐々木節斎の寺子屋に入る(8歳)。
1972年
節斎から北極の話を聞き、探検家を志して「5つの物断ち」(酒、たばこ、湯、茶、寒中の火)を始める(11歳)。この戒めを生涯守り通す。
1879(明治12)年
東京日比谷、陸軍教導団騎兵科に入団し軍人になり「矗」と改名(18歳)
1881(明治14)年
陸軍教導団を卒業、翌年4月仙台に赴任。
1887(明治20)年
仙台市の海産物問屋、菅原長兵衛・たまの長女やす(明治5年生まれ)と結婚。翌年長男誕生。以降4男3女をもうける。
1890(明治23)年
視察のため来仙中だった児玉源太郎将軍(当時少将)の知遇を得る。白瀬にとって生涯の大きな精神的支柱となる。
1893~96(明治26~29)年
将来の北極探検に備えて郡司成忠海軍大尉の「千島探検隊」に加わり、最北端の占守島で穴居越冬、探検。ベーリング海峡を渡りアラスカのエスキモー部落で越冬。(「山岳」第31年号「南極探検の思ひ出、白瀬矗」より)
1909(明治42)年
アメリカの探検家ピアリー一行が北極点の踏破に成功したことを知り、北極探検から南極探検へ180度転換する。
1910(明治43)年1月
イギリスのスコット大佐と南極点到達レースを争うことを決意し、帝国議会に経費下付請願を提出(予算は認められたものの政府は全く支給しなかった)。5月、東京毎日新聞、萬朝報に白瀬の南極探検計画を報道。7月、東京神田で南極探検発表演説会が開かれ、大隈重信伯爵を会長とする南極探検後援会が発足。資金や船を調達して、11月29日、海南丸が東京品川を出航。
1911(明治44)年3月
氷海に前進を阻まれてUターン。5月、オーストラリアのシドニーに入港してテント生活をして南極の夏を待ち、11月19日、シドニーを出航。
1912(明治45)年1月28日
西経156度37分、南緯80度05分に日章旗を立て、一帯を大和雪原と命名。2月3日、帰国の途、6月20日、海南丸が芝浦に到着。
1913(大正2)年
「南極探検」出版。後援会が「南極記」を刊行。以降1922(大正11)年、「北極から南極へ」、1942(昭和17)年、「私の南極探検記」、1944(昭和19)年、「南極と北極」を出版。
1914(大正2)年から
映画、講演旅行、日本全国、満州、朝鮮半島、台湾へ行脚。
1946(昭和21)年9月4日
愛知県挙母町(現:豊田市)にて腸閉塞のため死去。85歳。
■紹介
明治時代、人生の終盤に差し掛かる50歳にして南極に立つ矗…11歳からの夢「極地探検」を叶えるためには長い時間がかかった。
18歳で浅草本願寺の小教校に入学するが、僧職では探検はできないと、すぐに退学。陸軍教導団に入団して、自ら矗と改名する。これは退路を断って、なんとしても北極に行くという決意の表れである。矗(直が3つ)は、この名の通り、自分に課した戒めは一生守り、世の中の理不尽は抗議し、一本気であった。
探検家を志す矗を支えてくれたのは3人、北極行きの夢実現を陰ながら支えアドバイスをくれた児玉源太郎将軍、南極行きを実現させるべく世間の機運を高めてくれた大隈重信伯爵、そして、妻やすであった。仙台で家族を持った矗は間もなく郡司大尉の「千島探検隊」に加わり数年間留守にする。その間、家を守り生活費を捻出したのは、21歳で2人の子どもを育て妊娠中のやすであった。矗が探検に専心できた裏にやすの手腕がある。やすは昼は三味線の師匠、夜は着物の仕立てなどをして子を育て教育し、上の子たちも奨学金で学校に通い、下の子たちの学費や生活費の足しに送金した。
帰仙後、「千島探検禄」を刊行し「千島義勇警備田漁兵設置」「千島庁設置」等を帝国議会に請願したり、衆院選に出馬しようと試みる日々で40代を迎える。この頃の目標は「北極探検」であったため、何とか北極に近づく道を探ったのであろう。しかし日露戦争が勃発して矗も召集され、探検どころではなかった。
一気に動くのは矗が48歳、イギリスのピアリー一行が北極点の踏破に成功したことを新聞で知り、北極から南極へ目標を転換、さらに、イギリスのスコット大佐が再度南極探検に挑むことを知って、矗自身が行動し始めたからである。
帝国議会に探検費用の請願を提出し予算が認められ(実際には政府は一円も支給しなかったが)、新聞社が南極探検計画を報道したことが、明治の市民感情を高揚させた。船の調達が頓挫したり資金集めが困難で、予定した出航日には大幅に遅れたが、今で言う「市民によるクラウドファンディング」で開南丸は品川を出航する。
南極探検の長旅から戻ると、次は借金返済というもっと長い旅に出ることになる。自宅の売却、著書の出版、映画と講演の旅行等で返済し、探検から23年後、1935(昭和10)年頃には莫大な借財は返し終わった。
矗は講演旅行で移動するだけでなく、居住地も様々変えて、一所に長くいることはなかった。三男が用意してくれた隠居所にも3年いただけである。終戦後、疎開先の秋田県金浦の郷里から埼玉県新座市の自宅に戻るが、1年足らずで、二女タケコ母子と共に京都を経て愛知県挙母町に行き、ここで亡くなる。タケコは若い頃、講演旅行にも同行していて、矗と一番気の合う子だったのだろう。
愛知県吉良町の西林寺、秋田県にかほ市の浄蓮寺、横浜市の日野公園墓地にお墓がある。
■参考文献
「雪原に挑む白瀬中尉」 渡部誠一郎著(秋田魁新報社)
※家系図の氏名については個人情報に配慮しました。
白瀬 矗 = 妻:白瀬(菅原)やす
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長男:白瀬 知 長女:市川ふみこ 次男:白瀬 教 次女:白瀬タケコ
【1】 【2】 【3-1】【3-2】
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三男:白瀬 猛 三女:白瀬チヨコ 四男:白瀬 勇
【4】
【1】 長男:白瀬 知 = 長男妻:白瀬和歌
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長男:白瀬 邁 長女:大西須磨 次女:長谷川篤子 次男:白瀬 保
【1-1】 【1-2】 【1-3】 【1-4】
【1-1】 長男:白瀬 邁 = 長男妻:白瀬
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長女:白瀬 長男:白瀬
│(東京都杉並区)
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長男:白瀬 長女:上村
【1-2】 長女:大西須磨 = 長女夫:大西 曻
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長男:大西 次男:大西 三男:大西 長女:古賀
【1-3】 次女:長谷川篤子 = 次女夫:長谷川忠治
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長女:福田 次女:内山
【1-3-1】 【1-3-2】(大阪府富田林市)
【1-3-1】 長女:福田 = 長女夫:福田
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長男:福田 次男:福田
【1-3-1-1】 【1-3-1-2】
【1-3-1-1】 長男:福田 = 長男妻:福田
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長男:福田 長女:福田
【1-3-1-2】 次男:福田 = 次男妻:福田
├────────┐
長女:福田 次女:福田
【1-3-2】 次女:内山 = 次女夫:内山
(大阪府富田林市)├────────┐
長男:内山 長女:メイトランド
│ 【1-3-2-1】
長男:内山
【1-3-2-1】 長女:メイトランド = 長女夫:メイトランド
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長男:メイトランド 次男:メイトランド
【1-4】 次男:白瀬 保 = 次男妻:白瀬三代子
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長女:白瀬 長男:白瀬
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長男:白瀬 次男:白瀬 三男:白瀬
【2】 長女:市川ふみこ = 長女夫:市川藤市
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長男:市川 長女:島田しづ
(千葉県柏市) │
長女:島田
【3-1】次女:白瀬タケコ = 次女前夫:河口 楙
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長男:河口 潮 次男:池田
【3-1-1】 【3-1-2】(埼玉県狭山市)
【3-2】次女:白瀬タケコ = 次女後夫:札元一作
│
長女:白瀬
(東京都中野区)
【3-1-1】 長男:河口 潮 = 長男妻:河口
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長女:江口 長男:河口
(愛知県犬山市) (愛知県犬山市)
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長男:河口 長女:佐野
【3-1-2】 次男:池田 = 次男妻:池田
(埼玉県狭山市) ├────────┐
長女:都丸 長男:池田
(群馬県前橋市) (埼玉県狭山市)
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長女:小嶋 長男:都丸
【4】 三男:白瀬 猛 = 三男妻:白瀬梅子
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長男:白瀬 潤 = 長男妻:白瀬 次男:白瀬 緑
│(ニューカレドニア)
長女:高橋
(ニューカレドニア)
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