■白瀬南極探検隊員の紹介(探検隊員)
●田泉 保直:写真部員②
●データ
田泉 保直 23歳
東京都京橋区
明治21年9月22日生
昭和35年10月4日没
■紹介
アムンセンやスコット隊の映画撮影に刺激を受けた多田恵一(書記長)は後援会会長の大隈重信に映画撮影の技師派遣を要望。大隈は当時親しくしていた映画会社M・パテー商会社長梅屋庄吉に技師派遣を依頼した。
梅屋は当時社員であった田泉保直を撮影技師として派遣することとし、撮影機材も無料提供することとした。
梅谷は当初自分の弟子というべき技師男沢粛を指名したが、人気シリーズものの撮影があり手が放せないと、男沢の助手であった田泉に依頼した。
南極への参加希望者はだれもなく、先輩の人たちからも断られ「映像の映りには文句を言わない。ただ機械を回していればいい」そして「月給は80円やる(当時の月給は4円50銭)。1万円の保険をつけてやる。不幸の場合は5千円を機械の損料として会社で取り、残額5千円は遺族にやるから行け、行かなければクビだ」と脅かされ承諾した。
明治44年(1911)9月中旬に日本郵船「熊野丸」で横浜港を出航し10月中旬シドニーに着き、すぐ開南丸で南極に向かった。 南極では沿岸隊としてエドワード7世ランドを回って1週間位で鯨湾の上陸地点に帰った。1912年2月14日に南極鯨湾出帆し、3月23日ウエリントンに寄港。日本郵船「日光丸」で日本に帰国した。 撮影機は英国製撮影機ワーウイック(40キロ前後)(アメリカ製ワイック200フイート巻、と書いている資料もある?)レンズはツアイス(ドイツの有名レンズメーカー)F3.5をというものでした。と後年回想している。
田泉の撮影した映画は青山御所で皇太子(大正天皇)、皇太子妃、皇族の前で上映された。
そして、明治45年の浅草国技館での上映を皮切りに全国で上映されました。白瀬も後年借財返済のためにこの映画をもって全国を講演して回った。
探検後は日活となった会社に復帰し、その後は大和音影株式会社、神田劇場、松竹合名会社鎌田撮影所などの撮影技師として従事。
大正13年には独立してアジア映書社創立。シネマパーク開業。昭和5年東京青山6丁目(青山学院隣)に写真材料店を開業したが戦災により焼失。昭和20年福島県岩瀬郡濱田村(現須賀川市)に妻のぶ子、姪の渡辺朔子を連れて疎開し、昭和35年10月同地で死去した。享年71歳。
■参考文献
「福島民報」 昭和56年(1981)11月14日
「7人の白瀬隊員は語る 世界文化地理体系月報(百科事典の付録?)」平成26年3月4日
ニュージーランド協会関西代表 呉橋眞人寄贈
「田泉保直白瀬南極探検隊映画撮影記録」
国立近代美術館・フイルムライブラリー
田泉保直
父 = 母
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長男:田泉保直 = 長男の妻:田泉 宣 きょうだい:
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長女:田泉 (孫?)
(千葉県習志野市)
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