白瀬南極探検隊員の紹介(船員)
●野村 直吉:船長
●データ
野村 直吉 44歳
石川県羽咋郡一の宮
慶應3年9月7日生
昭和8年10月17日没
■紹介
本名、西東直吉。野村こと西東直吉は慶応3年(1967)9月7日西東勘右エ門・きよ夫婦の二男に生まれた。若い頃から船乗りとなり、日露戦争では御用船の船長として活躍し、独学で甲種船長免状をとり、神戸市の国際汽船会社の「ヨーロッパ丸」の船長として欧州航路に就航した。
南極探検を新聞で知った野村は「自分は給料など望まぬ。探検船の船長たる名誉を全うすれば、足れりである」と白瀬中尉に参加を申し込んだ。
野村船長の操る木造気帆船「開南丸」(204トン)は明治43年11月29日、東京芝浦港を出港した。 明治44年3月14日ロス海コールマン島沖(南緯74度16分、東経172度7分)まで到達したが氷海に前進を阻まれ、オーストラリアのシドニーに引き返した。白瀬隊がシドニーで南極の夏を待つ間、野村は再征資金や船具を確保するために一時日本に帰国し、10月18日豪州航路の熊野丸でシドニーに帰着。翌11月19日に再挑戦のため出帆。明けて明治45年1月16日予定地ロス海ホエール湾に到着した。 南極突進隊を待つ間、「開南丸」は野村の指揮のもとに沿岸などで学術調査を行い西経151度20分、南緯76度6分まで東進した。これは当時の新記録であった。 突進隊が帰還したのち、2月4日ホエール湾を出航し明治45年6月20日、一人の犠牲者を出すことなく東京・芝浦に帰還した。出帆以来1年7か月の長旅であった。
探検後は遠洋航路、欧州航路、米国航路などの大型汽船の船長として活躍し、晩年は築港関係の仕事にもかかわり、昭和8年10月17日東京足立区千住で病気療養中心臓マヒで逝去した。満66歳
■参考文献
「雪原に挑む白瀬中尉」ベールを脱いだ 開南丸船長 野村直吉
渡部誠一郎著 平成3年4月23日 増補第3刷 秋田魁新報社
父 = 母
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長男:西東勘吉 次男:塩谷直吉 長女:永野きん 次女:小滝みす
【1】 【2】 【3】
【1】 兄:西東勘吉 = 兄の妻:西東つき
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養子:西東勘治 = 養子の妻:西東やすい
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長男:西東 四男:西東
【1-1】
【1-1】 長男:西東 = 長男妻:西東
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長男:西東 次男:西東
(千葉県市川市)
【2】 塩谷直吉(野村直吉)=妻:塩谷はつ
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養子:塩谷正親 = 養子の妻:塩谷芳子
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長女:塩谷 長男:塩谷 次女:塩谷
【3】 妹:永野きん = 妹の夫:永野
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長男:永野志郎 = 長男妻:永野ハルヨ 長女:松田志けの
├───────┐ 【3-1】
長女:吉田 長男:増田
【3-1】 長女:松田志けの = 長女夫:松田勇作
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次男:松田勇平 = 次男妻:松田つや子
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長男:松田 長女:窪田 次女:井上
(石川県金沢市)
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