Project2020親族調査親族調査2020報告書

●土屋 友治(つちや ともじ):二等運転士

白瀬南極探検隊員の紹介(船員)
土屋 友治つちや ともじ:二等運転士


●データ
土屋 友治 34歳
山形県西田川郡賀茂村
明治11年5月22日生
昭和6年1月19日没

■紹介

明治11年(1878)、山形県西田川郡加茂村(現鶴岡市加茂)、漁業を営む土屋鶴吉、兼(屋号與助)の三人兄弟の末っ子として生まれた。 当時の加茂は天然の港湾として湾内には汽船が停泊し、日本郵船の西回り航路の寄港地にもなっており、はしけが出入りしていた。このような環境に刺激を受けた友治は夢を海に求め、丸木舟で単身加茂港から約40キロ離れた飛島へ渡ろうと試みたこともあった。

水夫時代から苦学勉強して海技資格の取得に励み、甲種二等運転士となり、東洋汽船の四等運転士としてサンフランシスコ航路「アメリカ丸」の機関士となった。明治41年(1908)7月、小樽木材会社所属の「第二小樽丸」に運転士として乗り組んだ。この船の船長矢嶋栄太郎は日露戦争当時、野村直吉と御用船に乗り組んだ間柄だった。また、友治は二十歳代の頃に日本郵船の「熊野丸」や「八幡丸」でオーストラリアやマニラ方面の南半球航海経験者であり、白瀬隊長にとっては心強い存在であった。 このこともあり、矢嶋や野村の推薦で南極探検員に採用された。「開南丸」では副船長格として野村船長を補佐し、安全航海の陰の大きな支えとなった。

探検後は東和汽船、東洋汽船などに入社、サンフランシスコ航路の「明洋丸」に乗り込むなどし、大正15年(1926)12月に船員生活を引退した。昭和2年(1927)4月から横浜の海事協会に入り高等船員係として勤務。昭和6年(1931)1月18日に脳溢血で倒れ、翌19日午前3時ころに自宅で死去した。満52歳。

酒をこよなく愛したほか、追分節をよくし、倒れた時も追分節を歌っていた時のことだったといわれている。面倒見のよい人で、彼の世話になった後輩マドロスは5千人の多きにのぼるという。 友治の遺徳をしのぶ郷里の有志が昭和34年(1959)11月3日、その胸像(鶴岡市高畠町、平田鐐吉制作)を加茂公民館正面玄関に建立、除幕(その後、山形県立加茂水産高校の前庭に移転)。台座には第1次南極観測隊長永田武筆による「白瀬南極探検隊員 土屋友治君之像」の文字がある。

■参考文献

鶴岡日報 昭和6年(1931)1月21日
土屋友治胸像裏面説明文  郷土の先人・先覚142<土屋友治> 
荘内日報社 昭和64年(1989)4月   秋田さきがけ 平成4年(1992)5月20日


土屋友治
  ├────────┬────────┐
  長女:服部登美   次女:鈴木登代   三女:秋野登志
 【1】                【2】

【1】 長女:服部登美 = 長女夫:服部  
           │
          長男:土屋  
           │(東京都八王子市)
           ├────────┐
           長男:土屋     次男:土屋   = 次男妻:土屋  
                           │
                           長男:土屋  

【2】 三女:秋野登志 = 三女夫:秋野  
           ├────────┬────────┐
           長男:秋野     次男:秋野     三男:秋野  
          (仙台市泉区)             (埼玉県熊谷市)

兄:土屋由蔵
  ├─────────┐
  長男:土屋由次郎   長女:土屋芳恵 = 長女夫:土屋  
                   │
                   長男:土屋  
                   (山形県鶴岡市)

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