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■昭和の白瀬南極探検隊

NPO法人 白瀬南極探検100周年記念会
調査専門部会員 石船 清隆
にかほ市教育委員会白瀬南極探検隊記念館副主幹(学芸員)

はじめに
明治45年(1912)1月28日、白瀬矗率いる南極探検隊・突進隊5名は、南緯80度05分、西経156度37分まで到達し、日章旗を立て、銅箱に納めた寄附者名簿をその下に埋め、一体を「大和雪原(やまとゆきはら)」と命名しました。
明治期に行われた南極探検の後、大正期には飛行機による南北両極探検の計画がありましたが、実行されることはありませんでした。
昭和期には白瀬自身が南極で領土宣言した一帯を日本の領土となるよう、いろいろな方々に働きかけていることがわかりました。
これまであまり知られてこなかった、イギリスやアメリカ、そして日本の外務省に対し、白瀬矗が亡くなる直前まで南極の領土を主張した結果、戦後日本の食糧難を救った南氷洋の捕鯨に繋がるという、数奇な歴史を紹介します。

1.バードと「日章旗」
昭和30年3月、朝日新聞社の矢田喜美雄記者が13回にわたって連載した「北極と南極」という記事は、日本の南極観測に火をつけた記事として有名です。
飛行機による北極点と南極点をめざして探検したアメリカのリチャード.E.バードについて書いた10回目の記事の中に、次の記述があります。
「昭和4(1929)年の暮れ、極に向かって飛んでいると・・・突然、彼の目は氷原の一角にクギづけされた。まっ白い世界に赤い一点。彼は機長に命じてその赤いもののまわりを旋回し、三回目にやっと正体をつかんだ。それは、細いタケザオの先に結ばれて風にはためく『日の丸』旗であった。」(「北極と南極⑩」朝日新聞 昭和30年(1955)3月25日付)
南極探検30周年記念だった昭和16年(1941)5月には南方展覧会が東京三越日本橋本店で開催され、5月13日から15日まで講演会も行われました。15日には白瀬矗も「日本南極探検の感想」という題名で講演をしており、同年6月20日に発行された『文明協会ニューズ日本と世界第176輯』に講演録が載っています。
「昨年か一昨年アメリカのバード少将が、第1回の時は見なかったそうですが第2回探検の時に飛行機の上から下を見ると旗が立っているのを見た、その旗というのが吾々が立てて来た日章旗である。そこでバード少将は我が外務省に『八十度の所に日本の国旗があるが日本は彼處を探検したことがあるのか』と問い合わせてきた」と講演で述べています。(白瀬矗 1941)
明治45年(1912)年1月28日、白瀬矗を南極探検隊長とした白瀬南極探検隊の突進隊5名が、この地に「日章旗」を立ててから17年後、バード少将が本当に日本の探検隊の残した日章旗を発見したのでしょうか。
朝日新聞の記事や白瀬矗の講演について、バードが日章旗を発見したかどうか真偽は定かではなく、バードの報告書に記載があるかどうか、関係する記録などは、今のところ見つかってはいません。
昭和4年(1929)4月6日付朝日新聞に「バ中佐の南極探検で英米に外交問題」の記事が掲載されました。記事を見た白瀬矗は白瀬隊が探検した地点の領土の主張を亡くなる直前までしています。
南極の地名や領土権について、アメリカやイギリス、そして日本の外務省、帝国議会にも積極的に働きかけていたことが、白瀬記念館を含めた関係機関に残された資料でわかりました。
今回は、残された昭和期の資料をもとに南極の領土権について、何度も交渉する活動を紹介していきます。

 南極観測の火付け役となった矢田喜美雄氏の13回にわたる「北極と南極」10回目の記事

 飛行機で南極探検をしていたバード少将が「日の丸」の旗を発見した。

朝日新聞 昭和30年(1955)3月25日付

 白瀬矗から米国地学協会宛に「南極探検記録書」が寄贈されたことの礼状

 白瀬矗の四男・勇が解読したと考えられる。

浄蓮寺資料1930年4月18日 在米日本大使館内 水澤書記官宛米国地学協会会長ジ・グロスヴェナー書簡

2.イギリスに関する渉外の記録
白瀬南極探検隊記念館に浄蓮寺から寄贈・寄託された資料の中に、在日イギリス大使館からの書簡などが残っています。
資料の年代は昭和4年10月4日から昭和7年4月11日までのもので、白瀬矗が在日イギリス大使館などに手紙を送り、返信された書簡によって明らかとなったことを紹介します。
昭和4年10月7日白瀬矗宛在日イギリス大使館書記官からの書簡によると、同大使館の今田俊生に白瀬が送った日本語の手紙を英訳してもらったと記され、内容を理解した上で「英文で記述されている日本の南極探検記録を調べたが、貴下が鯨湾以南に進んだ事は英文で発表されていない。」と記しています。さらに「領土権承認を請求するに先立ち、英文で探検記を発表することが必要」とも記されています。日本文の資料を送付すれば喜んで英訳するという記述も返信の中にはありましたが、実際には大使館の業務に忙殺され、英訳はできなかったようでした。
昭和5年1月26日付イギリス外務省宛白瀬直筆の手紙では、「南極地方領土権獲得の件に付照会」と題し、白瀬隊は日本帝国の民間派遣隊で、日本の領土として南極を占領、その地域を日本帝国政府に寄付することとしています。
日本の主張する南極領土の緯度経度はイギリスの南極領土とは遠距離であると主張します。そのほかシャクルトン隊で同行したシドニー大学ディビット教授やモーソン博士と白瀬隊は当時会見し、一緒に写真撮影をしていることや、明治45年に日本南極探検後援会長・大隈重信の名前で英国探検協会に地名をつけて報告したと記しています。
イギリス外務省にこの手紙が届き、白瀬の手紙を受理し、イギリスで対応があったのかどうかは、今のところ不明です。
ちなみに白瀬隊は明治45年8月18日、日本に帰国してすぐ、イギリスロイヤル地理学会に日本南極探検の成果を報告しています。報告したのは、学術部員の池田政吉隊員であることが、イギリスに残された資料からわかっています。

昭和4年(1929)9月22日付で在日イギリス大使館に白瀬矗が手紙を出し、10月4日付で在日イギリス大使の回答を書記官(秘書)が書いた手紙である。

白瀬が南極の探検した場所を日本の領土であると主張した9月22日付の手紙について、受理するよう大使は書記官に指示しており、イギリス外務省に直接相談したほうがよいと提案されているという。

浄蓮寺資料1929年(昭和4)10月4日付白瀬矗宛在日英国大使館書簡

イギリス外務省宛に提出したはずの白瀬矗直筆の手紙。

この手紙を東京中央郵便局で英訳したため、日本語の手紙は結果的に白瀬の手元に残ったと考えられる。

浄蓮寺資料昭和5年1月26日付大英帝国外務省宛白瀬矗書簡「別紙 南極地方領土権獲得の件に付照会」

3.杉村楚人冠とアメリカからの照会
イギリスの南極探検は、明治43年の白瀬隊が出発する直前まで、日本に書籍や新聞で紹介されました。
とくに新聞記者の杉村楚人冠(そじんかん・本名:廣太郎)を中心とする朝日新聞では、北極や南極の記事を海外から配信された記事で紹介しました。

明治42年7月3日から「南極探検」(3回連載)、同43年4月9日に「南極探検家」、同年6月14日に「南極探検出発―スコット大佐再挙、最新式の探検隊」などの記事に関わります。杉村は大隈重信を会長とする南極探検後援会の幹事も務めた人物でした。(小林康達 2012/我孫子市杉村楚人冠記念館編 2012)

昭和4年11月14日に朝日新聞杉村楚人冠宛白瀬矗の手紙が我孫子市杉村楚人冠記念館に残されています。内容は、日本帝国の民間派遣の南極探検隊が領土権獲得を公布し、議会へ請願、探検後移民または軍隊駐屯が必要ではないかなど、南極の探検した地点を日本の領土となるよう研究していることを楚人冠に報告しています。イギリス・アメリカ両国が南極の領土権を主張する中、日本も主張するのに国際公法上差し支えないか、楚人冠にも知見を伺っています。

石田榮雄の論文では、昭和5年1月27日幣原外務大臣宛出淵勝次在アメリカ日本大使の文書が引用され、「米国の地学協会で南極地方の地図を出版するので、資料を出せと言ってきたから、昭和4年7月26日附貴信欧二普通公第847号(欧米局第二課)添付の同大尉願書中記載ある白瀬一行到着地点を示しておいたが、同協会は右地点のほか、一行のとった経路を知りたいと言って来た故、速やかに資料を出せ」(石田榮雄 1957)と言ってきていたといいます。

我孫子市杉村楚人冠記念館所蔵資料の昭和5年3月11日付杉村廣太郎宛白瀬矗書簡の中に、同年3月9日付白瀬矗宛野口権蔵書簡が同封されていました。

 大隈重信の養子・大隈信常侯爵に宛てた白瀬矗の手紙を秘書の戸田傳四郎が長年保管していた手紙。
 アメリカ地理学協会に勤めていた日本人・村山順から届いた手紙と図面が白瀬矗に届いたが、廣田外務大臣にすべて提出してしまい、大隈を通じて外務省に返却を求めたという内容。
 大和雪原で領土宣言後、昭和6年5月23日付で領土寄附願を幤原外務大臣に提出したことがわかる。
 白瀬は南極の占領地域と開南湾、大隈湾の領土問題を長年放置している日本に対し、領土の主張をするよう、過去の資料の写しを添付して、大隈信常に訴えている 。
白瀬記念館寄贈資料昭和10年11月2日大隈信常宛白瀬矗書簡

その書簡によると、アメリカ国務省の申し出で『南極記』が必要だという報知新聞の記事を見た川越在住の野口権蔵が所有している『南極記』を白瀬矗に差し上げたいと手紙を出し、野口権蔵から譲り受けた『南極記』を外務省を経てアメリカ国務省に郵送することになったことから、杉村楚人冠が所有していた『南極記』は確実に保有していてほしいと白瀬が手紙でお願いしている内容になっています。(昭和5年3月11日付杉村廣太郎宛白瀬矗書簡 我孫子市杉村楚人冠記念館所蔵資料)

1930年(昭和5)4月18日付在アメリカ日本大使館書記官宛アメリカ地理学協会会長ジ・グロスヴェナーからの手紙が浄蓮寺の資料に残されていました。白瀬中尉から「南極探検記録書」の寄贈にあたり、在アメリカ日本大使館が多大な貢献をしていただいたことに深謝し、併せて白瀬中尉に当協会が感謝の意を伝達してほしいと日本語で書かれた手紙が残されています。このことから、野口権蔵の『南極記』が白瀬矗と外務省を仲介して、アメリカ地理学協会およびバード少将の手元に届いたものと考えられます。

「南極探検記録書」と考えられる大正2年発行の『南極記』

 白瀬南極探検隊記念館所蔵資料

4.アメリカ地理学協会・村山順
アメリカの地理学協会には、白瀬矗に協力した一人の日本人がいたことが、残された資料からわかっています。村山順(はじめ・明治12年(1879)生、昭和29年(1954)没)は、京都高等工芸学校図案科一期生で、大正10年(1921)から昭和16年(1941)まで、アメリカのナショナル・ジオグラフィック社に所属し、動物図を制作していたといいます。その作例はジオグラフィック社が刊行しているシリーズNational Geographic Society THE BOOK OF DOGS 1927、THE BOOK OF FISHES 1961などに残されています。(石井香絵 2018)

村山は洋画家・牧野克次の長女・直と明治43年(1910)に結婚し、没年までアメリカで暮らしていました。(石井 同)

昭和10年10月12日付白瀬矗宛村山順の直筆の手紙が、白瀬矗、谷口善也とともに日本極地研究会を作った木村義昌の資料に残されています。

バード少将の南極探検の記事が掲載されたアメリカ地理学雑誌10月号と1932年発行の南極地図を白瀬に送ったが、雑誌の南極の地図には赤鉛筆で「開南湾」「大隈湾」を記入し、同封した南極地図には、開南湾を「ヘレンワシントンベー」、大隈湾を「ハルフラットベー」と掲載しているが、『南極記』で日本人探検家が1912年に発見し命名していたため、バード少将が最初の探検で名付けた所を後に改正した。過去においてバード少将ほど南極を研究している探検家はいないので、一言一句地理学会に影響を与える人物である。白瀬矗の名とともに大隈湾・開南湾の名称が永遠に世界の地図に輝く事を、同じ日本人として欣喜に堪えない。躊躇なく自分の命名したものを取消、白瀬の命名したものを採用したバード少将も人格者として敬意を表す。と書かれています。

ほかに、136年(昭和11)4月8日付白瀬矗宛村山順の手紙(白瀬矗による写し)では次のように書かれています。

大隈湾・開南湾に改名以来、東京朝日、報知、ジャパンアドヴァタイザー等を拝見している。バード少将秘書官サンダース海軍中佐が役所(アメリカ国務省地理学協会)に来社され、『南極記』の大和雪原に関する部分の英訳を(村山に)依頼され、早速翻訳した。後援者芳名録を入れた銅製の箱、日章旗、天皇陛下万歳三唱を広漠な雪原で行ったが、いずれ大日本帝国の領土として人馬往来もあるかもしれぬと特に力を込めて訳述した。

このことから、村山順が『南極記』の英訳をしたため、バード少将やアメリカ地理学協会の南極の地図などを編集する関係者に日本の南極探検が理解されることになったとわかります。

昭和11年10月5日付木村義昌宛白瀬矗の手紙には、村山順の手紙(白瀬の写し)とバード少将の側近だったハロルド・E・サンダース中佐の手紙(白瀬矗の写し)も残されており、白瀬隊が命名した南極の地名がアメリカが製作する南極の地図に反映されたのは、村山順の存在が大きく影響したといえます。

村山順の写真

竹田美寿恵・勝成忠ブログ 平成29年11月 「画家 牧野克次の家族と人生」 http://katsu85.sakura.ne.jp/hanako.htm

国地理学協会の村山順が白瀬矗に宛てた手紙

 バード少将が命名した南極の地名を、白瀬矗が命名した「大隈湾」「開南湾」に改正したということを報告しています。

木村義昌資料昭和10年10月12日 白瀬矗宛村山順書簡

5.日本国内での対応
日本の外務省や帝国議会に対する白瀬の南極探検について、時代ごとで整理すると、明治期は帝国議会に南極探検の補助金下付を働きかけました。同郷の斎藤宇一郎なども関わっていましたが、結局交付されず、国民からの義援金で実行されました。南極探検の成果は記録映画や講演、展覧会を行うことで、寄付者に還元しています。

大正期は飛行機や船舶を使用した南北両極探検を実行しようと、帝国議会に約20万円の補助金下附を請願しています。紹介議員は同郷となる秋田出身で文部大臣にもなった田中隆三でした。

バード少将が北極だけでなく南極も飛行機によって探検したことで、昭和4年4月4日朝日新聞記事「バ中佐の南極探検で英米に外交問題」として取り上げられ、白瀬矗はバードの記事をきっかけにして、自身が探検した南極地域を日本に寄付し、領土権を主張するよう外務省や帝国議会、そして国民に生涯をかけて働きかけていくことになります。

昭和14年7月9日東京・芝区青年団会館で行われた南極探検28周年記念大会では、極洋捕鯨株式会社取締役で海軍大佐の中村虎猪(とらい)が「南極洋の捕鯨事業」と題して講演しています。

講演の中で、白瀬が占領を宣言している南極付近や開南丸の航路を示し、南緯55度から66度付近の五千マイル位の海面に世界の捕鯨船が集まり、自社も世界の漁業国と争っていると述べています。

中村の会社では鯨を捕る船が9艘、大きい船が1艘で捕鯨船隊の1団隊を形成しており、日本には6団隊、ノルウェーは10団隊、イギリス9団隊、ドイツ7団隊、アメリカに1団隊あったといいます。

南氷洋に占領地があれば、そこに工場を作って、鯨を処理することができますが、どの国も南氷洋に占領地はないため、3万トン以上の船を造り、鯨の油を船の工場で精製しました。鯨油は日本に持ち込むと日本の製油業者がひっ迫するため、国内ではなくイギリス、オランダ、ドイツに販売して外貨を稼ぎました。その外貨は支那事変や軍需品に使うためだったといいます。

このように南極探検後の記念事業での白瀬矗の講演録などを見ると、日本の沿岸捕鯨の限界から、南氷洋での遠洋捕鯨を始めるため、南極や千島の探検に係わった白瀬矗の過去の実績を根拠に、北洋や南氷洋で遠洋捕鯨事業を推進する団体と結びついていったことがわかります。

第二次世界大戦後には、鯨の肉が食糧難から国民を救う一助となるため、日本を占領したGHQに南氷洋での捕鯨活動再開が認められることになりました。

結果として、白瀬の活動が戦後の食糧難を救うことに繋がったともいえるでしょう。
 
最後になりますが、今回の本稿作成にあたり、ご指導、ご助言いただいた関係者の皆様のご協力により実現できましたことをここにご報告するとともに、心から感謝申し上げます。

南極探検船開南丸抜錨記念碑の絵ハガキ

 南極探検記念絵葉書(五枚セット)のうちの1枚。写真左から、三宅雄二郎(雪嶺)委員長・文学博士/抜錨記念碑/侯爵 大隈信常 記念会総裁


参考・引用文献

・我孫子市杉村楚人冠記念館編 2012 『我孫子市文化財報告書第4集 杉村楚人冠記念館平成24年夏季企画展解説書 白瀬中尉の南極探検と楚人冠』 我孫子市教育委員会

・石井香絵 2018 科学研究費助成事業研究成果報告書「明治後期を中心とする油彩画の和洋融合形態の展開と受容」 代表:石井香絵 課題番号:16K16754

・石田榮雄 1957 「白瀬中尉南極探検の外交面」尾形裕康編 『学術研究第六号 早稲田大学創立七十五周年記念号』 161-183頁

・開南探検協会編 1939 『開南 大日本帝国南極領有28周年記念講演特集号』 南洋開発社出版部

・開南探検協会編 1940 『開南 科学部隊南極探検発表記念号』  南洋開発社出版部

・開南探検協会編 1940 『開南 南極探検隊濠州野営30周年記念座談会特集号』  南洋開発社出版部

・小林善七編 1935 『灣頭の文化 日本南極探検隊長 白瀬矗記念號』第51號 金浦文化協会

・小林康達 2012 『楚人冠 百年先を見据えた名記者杉村広太郎伝』 現代書館

・白瀬矗 1941 「日本南極探検の感想」 下山鎌吉編 『文明協会ニューズ日本と世界第176輯』 財団法人文明協会 21-28頁

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