■白瀬南極探検隊員の紹介(探検隊員)
●吉野 義忠:被服係
●データ
吉野 義忠 23歳
香川県
生年月日不明
昭和33年1月29日没
■紹介
吉野義忠は香川県から北海道の増毛町に移り住んだ開拓移民だったといわれ、当時早稲田大学の学生で、学内にあった※「力行会」の会員だったこともあり、探検隊に参加した。
吉野は被服係を担当し、南極に突進隊とともに上陸。ホエール湾根拠地、南緯78度33分、西経164度22分にテントを張り、村松進隊員と突進隊が帰還するまで気象観測をおこなった。
探検後、南極探検はロックフェラー財団からも援助を受けていたため、報告のために(大隈の依頼か?)大正2年(1913)米国・ロサンゼルスに渡った。 同年帰国した吉野は同じ増毛に住む花子(昭和46年70歳死去)と結婚した。
しかし、米国での暮らしが忘れられず、移住することを決めた。だが、妻の花子はトラコーマのために横浜の検疫所で渡航が認められず、一人で米国に向かわざるを得なかった。
大正10年(1921)に再度妻を迎えに来たものの許可は得られなかった。以来数年に一回の割で妻子を訪ねる一方、生活費や洋服、おもちゃなどを郵送したが、ついに家族水入らずの生活はできなかった。
その後、米国で皿洗いから農園経営、ホテル業で成功した吉野は昭和30年ころに米国の生活を清算し帰国。妻花子、長女悦子、二女栄子らと再会したが、2,3日で別れを告げ昭和33年、死期を知ってか移り住んだ故郷の丸亀で一人寂しく亡くなった。71歳
二女の田中栄子の思い出は「頑固で曲がったことのきらいな一徹の父。孫にあたる私の娘らによく南極探検の話していた」という。「おじいちゃんの時は、足のつま先に唐辛子の実を入れて赤ゲット(毛布)でくるんで氷の上を歩いた。今の探検(南極観測)はピクニックみたいなもの」とよく語っていたという。
※「力行会(りっこうかい)」は、1897年(明治30年)島貫兵太夫(しまぬき へいだゆう)牧師(東北学院英語神学部第1期卒業生)によって創立、日本は海外移住の指導をする機関が少なかったため、苦学生へのホーム開放に始まり、日本人の海外への発展と重要性を訴えながら「渡米部」「日米女学校」「日米実業学校」など関連教育施設を創立したり、「渡米新報」を発行するなど、苦学生及び移住希望者に幾多の便宜を与えた。
■参考文献
北海道新聞(昭和57年1月10日、1月13日
北海道新聞(昭和59年7月4日)
早稲田大学校友会設立125周年記念「南極100年展」パネル
アサヒグラフ新年特大号1956
力行世界 平成25年4月15日
吉野義忠
├─────────┐
長女:南波悦子 次女:田中栄子
姉:吉野
├────────┬────────┐
長女:吉野 長男:吉野 次男:吉野 = 次男妻:吉野
│
長男:吉野
コメント