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●三浦 幸太郎(みうら こうたろう):賄係①

■白瀬南極探検隊員の紹介(探検隊員)
三浦 幸太郎みうら こうたろう:賄係①


●データ
三浦 幸太郎 25歳
宮城県
明治19年9月23日生
昭和42年5月10日没

■紹介

1910(明治43)年7月5日に東京神田錦輝館で白瀬隊の南極行きの発表会があり、その場にいた三浦は探検隊隊員を希望し、近所に住む三浦と親しかった麻布第一連隊長西郷虎太郎からの紹介状で白瀬と会った。

東大で身体検査があり、その時に梅干しの種を歯で砕いて採用された。出航前には南極探検隊の事務所の芝浦「月見亭」で白瀬隊長から刃渡り9寸の短刀を渡され小指先を切って、親指に血をつけて血判をとったが、血判を拒むものはその場で採用取り消しとなった。

シャクルトン、スコットなどの記事を新聞で読み開南丸が余りに小さいので脱退した者もだいぶいた。

航行中一番困ったことは飲料水であった。開南丸には四角のコンクリート製と木造のタンクが2つ用意されていたが、船が揺れるたびにコンクリート製のタンクはコンクリートが壊れ水に混ざり白い水となり、木製は防腐目的に中を焼いていたので黒い水となった。

毎朝コップ一杯の水をもらう列をつくるときに、それぞれ「白」とか「黒」とか言って渡すが、コンクリート臭い白は一番嫌われた。

コップ一杯の水で飲み、洗い、うがいをするという節水ぶりで、白瀬隊長といえども順番を待った。

第一次探検時に脳溢血をおこし病後の衰弱が復さず、シドニーから帰国した。

※1946(昭和21)年頃、マッカーサー元帥に南極領土について白瀬中尉と一緒に会見した。日本の南極領土は侵略してとったものでなく、学術的なもので戦争に関係ないという旨を述べると元帥は「了解した」というので、「口頭でなく、書面にてお答えいただきたい」という「OK」と言われた。その書面は白瀬隊長の手元にあると思う。と当時の探検隊の実績を「世界文化地理体系 月報 第24号 オセアニア・南極編 7人の白瀬隊長を語る」で述べている。

※白瀬矗がマッカーサーと会見したとの記録は残っていない。

※墓は東京都港区三田 明福寺

■参考文献 「世界文化地理体系月報 第24号オセアニア・南極編」7人の白瀬隊員は語る


三浦幸太郎

父 = 母
  ├───────────┐
長男:三浦幸太郎   きょうだい:三浦  
 │            │
長男:三浦加市      長女:小林  
 │
長男:三浦  
 (茨城県古河市)

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